p77-146
豊国 [豊国筆玉藻前]

(26)大内に於いて狐狩り稽古犬追う物の権与 #三浦・上総、両介(みうらかずさのりょうすけ)那須野へ発向(はっこう)



  扨も那須八郎、領内の妖怪神鏡の徳によって鎮まりけるゆえ、近国近隣すべて安堵の思ひをなす。
八郎、此の旨関白殿下、使庁へ呈書なし 「朝廷の天威によって領内静謐仕まつれば、御勢を下し給わるに及ぶべからず。此の後また災害あらば、訴へ奉らん」
と御礼を申し上げけるによって、御勢下さるべきお

p77-147
沙汰は止み、猶又八郎上京して神鏡を返納なしけり。
 然るに保安4癸亥[1123]年正月28日。当今鳥羽院、いまだ御壮年にましませども、御在位わずか16年にして御位を譲らせ給ひ、太子・顕仁(あきひと)親王御即位なり。翌年改元あって、天治元甲辰年とす。崇徳院と称し奉るは是なり。御母は大納言・公実(きみざね)卿の御息女、名は璋子(しょうし)、後に待賢門院(たいけんもんいん)と称し奉る。日月のをしうつること隙行駒(ひまいくこま)にひとしく光陰矢よりも早ければ、天治より大治天承長承(たいいてんしょうちょうしょう)の年号を経て、保延(ほうえん)3丁巳[1137]年に至るまで14年、那須八郎が領内静謐なりけるに、当年に至って那須野にかくれ住む白面金毛九尾の悪狐、昼夜形をあらはし、害をなすことをびただし。
 領内の民百姓父母妻子兄弟眷属を殺され、泣きかなしむ声ちまたにみちて、哀れ之。
昼といへども戸ざし他行往来することあたはず、農業をなすこともならざれば、庶民飢えにおよび、困窮言語に絶えたり。其の上、隣国他郷のものの往来するものはからざるに失はれ、これを尋ね来るも又同じく害にあひ、或いはからうして助かりのがるるものもあり、領主へ訴え出でて、これをなけく八郎が領内は申すに及ばず、隣国の難渋大方ならず。民は領主へ扶助を乞ふて露命をつなぎ、やうやう其の日を送り、剰(あまつ)さへ領主の家中も害を蒙(こうむ)り、領主は納収(のうしゅう)もなければ月俸(げつぼう)ひしとさし支へ、八郎宗重、今は止むことを得ず。
 先年上洛して奏聞を経てあれば、前(さき)の摂政・太政大臣・関

p78-148
白忠実公への呈書、彼の家の長臣・秦弾正少弼量満(はたのだんのしょうしょうひつかずみつ)、西山左京亮長のぶ、両人迄、飛び札(とびさつ)を以って申し述べけるは、
「妖狐の災ひふたたび起こって、領内近国近隣の困窮斜めならず。退治のこと国人(くにんど)の手にあひがたし。今は御勢を下し給わるべしと願ひける。」
殿下聞(きこ)し召して、翌日参内の折をもって公卿一統の評定ありしに、時の関白忠通公、左大臣家忠公、右大臣有仁公、内大臣宗忠公をはじめ、衆議まちまちにして決せざりしが、先年八郎上京せし節、播磨守安倍泰親、悪狐退治の斗策(けいさく)を議し奉りし、これ全き上策ならんとあれば、殿下もさこそ思しめされ、
「常時在京の武士にて英雄豪傑大将の任に堪えんもの誰なるらん、」
と議せらるるに、満座の公卿たやすく発言しかねて一同に殿下の趣意(しゅい)を伺ひ、
「誰か此の器にあたらん、」
と存じ寄りし、武士も心に浮かばず。
「いづれ武勇すぐれ、且つは東国の変事たれば大将も東国の武士然るべし、」
との申しさるれば、殿下重ねて、
「各々心に是ぞとおもふ武士あらば、遠慮なく議論あるべし。大切の任なれば、能々(よくよく)吟味あってしかるべし。先ず東国の武士在京せしものにおいては、安房国(あわのくに)の住人、三浦介義純(みうらのすけよしずみ)、上総国(かずさのくに)の住人・上総介広常(かずさのすけひろつね)の両人英雄の聞こえありと宣ひけるにぞ、諸卿おのおの殿下の御めがね尤も大将に任ぜられ、官兵を司らしむるとも過つこと有べからず、人傑といひ、彼の国の地理も案内たるべし。賢慮此のうへあらじ、」
と衆議一決し

p78-149
三浦介・上総介、大将宣下の図 [三浦介・上総介、大将宣下の図[参文A]

ければ、でんかには六位の蔵人をもって安倍泰親を階下に召しめ、畏まって至れば、内意を以ってのたまひけるは、
「下野国(しもつけのくに)において先年の悪獣再び害をなし、自領他領の人民夥しく死亡し、彼の国の困窮、大方ならず。那須八郎より退治の官兵を下し給わらんことをねがふよって、東国の武士・三浦介義純、上総助廣常、両人を対象として官兵を向けられん。評議決定せり。是先年汝が議せし良作にしたがふ所之。しかれば、汝も両人ともに彼の地に罷(まか)り下り、兼々(かねがね)議せしごとく悪獣の飛行をとどむる法を修すべし。先年と違ひ、汝今は年老いて苦労なるべけれども、国家人民の為なれば、精勤を励まし、ふたたび大功を立つべき之、」
とあれば、泰親かしこまって御請けなしけるにぞ、時の関白殿下一々奏聞をとげられ、三浦介・上総介、両人を大内の階下にめされ、公卿殿上の職事堂上に列座ありて、勅宣の旨を達せられけるは、
「下野国那須野にかくれ住み、諸民を害せる悪獣・白面金毛九尾の狐退治の大将に任ぜられ、節刀(せっとう)[古代(奈良時代から平安時代)において、天皇が出征する将軍または遣唐使の大使に持たせた、任命の印としての刀]を給わり、1将に騎馬50、騎士卒(騎馬兵)・列卒[鳥獣を狩り出したり、逃げるのを防ぐ人夫]・惣官兵[軍事権限を持つ臨時の官兵]7500余人つづ授けられ、両将其の勢1万5千余人を添え下さる。
 篠武功をあらはし、悪獣を滅ぼし、人民の害をのぞき、宸襟(しんきん)[天皇の心]を休んずべし。領主注進の趣き、容易ならざる。猛狐にして人数をおそれず、虎豹も及ぶ所にあらずと聞こゆれば、進発の以前、狐退治の稽古調練の上、罷り下るべし、」
との宣旨(せんじ)之。両人畏まって在京多き武士の中

p79-150
三浦上総介霊貴に武器を授かるの図 [三浦上総介霊貴に武器を授かるの図[参文A]

にて大将の任にえらまれ身の誉れ、家の面目、冥加にあまりて御請けなし。
退出すれば、泰親を召され、改めて此の度野州下向の宣旨を達せられ、是又畏まって退出す。其の後、三浦上総介両介、関白殿下の館に至り、木幡左衛門佐光隣(こばたさえもんのすけみつちか)について狩の稽古なすべき。場所は何れの地に定め給わらんやと伺ひければ、殿下の御下知として大内の広庭において犬をえらみ、狐にたとへ、是をもって士卒・列卒、調練の上見分を受け、発行すべきむね命ぜられけり。斯くて三浦上総両介相談しけるに、
「此の度の狐狩り、彼は神通あれば、武備のみを以って得がたからん。本朝神力の加護にあらずんは功を立てんこと叶ふべからず」
と三浦介は常々信じける諏訪(すわ)大明神を礼拝(らいはい)し、
「此の度勅命を蒙る。那須野の悪獣退治、神力の加護をたれ給へ」
と祈願し、上総介も高良(こうら)明神に誓ひをかけ、奉りけるが、祈念の誠を感応納受ましまし。
 ある夜、三浦介、霊夢(れいむ)を蒙りけるは、
「汝、此の度那須野の悪獣退治すべき勅命を蒙り、神力の擁護をねがふ其の志切なるによって、弓矢を授く。これをもって退治すべし」
と諏訪大明神より賜ると見て、夢さめ、起き上がりて見れば、白木の弓に鷲の羽の征矢(そや)[鋭い鏃をつけた,戦闘用の矢]2筋取り添えあり。三浦介感涙を流し、嗽手水(うがいてみず)に身を清め、弓矢取っておしいただき、明神を礼拝し、
「大願成就有りがたし」
と悦びいさむこと限りなし。
上総介も同じ夜に霊夢を蒙り、高良明神納受の神勅あらたに大身の槍を下し

p79-151
大内の庭上にて狐狩り調練の図 [大内の庭上にて狐狩り調練の図[参文A]

賜ふ。
「是にて悪狐を亡ぼすべし。」
猶も神力をくわへんと告げ賜ふと思へば夢さめけり。不思議なりと起き返り見れば、夢に授け給ひし槍は枕に近く立てかけてあり、身を清めてかの槍をおしいただき、感応むなしからざるをよろこびける。
 やがて両人、大内の稽古場に出て500人の士卒をわかち、犬の集めて狐狩りの調練をなしけるが、其の日の稽古おわって三浦介、霊夢をかふむり弓矢を授かりしよし、ひそかに語りければ、上総介も夢に神慮あって槍を授け賜ひしと語り合ひ、神徳のいちじるしきを感嘆し、奇異の思ひをなしにける。既に稽古のひもみちてかけ引き熟しけるゆへ、其の旨上達し、見分を乞ひ、進発の用意をなしぬ。
 犬追うものの射術、是を権興(ばまり)として三ッ物の式定まれり。所謂「流鏑馬笠懸犬追う物」後世の今に行わるる所之。
 斯くて狐狩りの調練熟するうへは少しも延引すべきにあらず。悪狐退治遅れらば、彼の地に人民死亡も多く、困窮いやましならんと、那須野へ進発其の日限も定まれば、八郎宗重方へも其の旨 達せられ、播磨守(はりまのかみ)泰親は、300人を従へ、一日先へ打ち立ちけるが、翌日三浦介義純、上総介広常、騎馬50騎、士卒・列卒7500余人。都合15000余人を引き具し、旌旗翩飜(せいきへんはん)[旗をなびかせて]と風にひるかへり、刀槍爍燿(とうそうれきしゃく)と日に輝きし隊伍整々(たいごせいせい)とあたりをはらって武威を示し、下野の国におしすすむ有りさま厳重にこ?見へにける。洛中洛外は申すに及ばず、道筋の貴賎、群集して感ぜぬものはなかりけり。猶、関八州に宣下あって数万の列卒を出さしめ給ふ。

三浦上総両介、那須野へ進発の図 [三浦上総両介、那須野へ進発の図[参文A]


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