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「安倍泰親御悩を卜う」
(19)高陽殿(こうようでん)に藻女(みずくめ)身より光を放つ #安部泰親(あべのやすちか)易道(えきどう)の妙を究む
鳥羽院御位につかせ玉ひし、天仁の年号3年にして改元あり、天永元庚寅[1110]年とす。
同4年巳正月、朔日(ついたち)、帝御元服(みかどごげんぷく)ましまし。摂政・忠実公(ただざねこう)を大政大臣とし、其の後永久三乙羊[1115]年4月28日、忠実公を関白に任ぜられ、聖主賢臣(せいしゅけんしん)の治教休明(ちきょうきゅうめい)[政治と教育が美しくて素晴らしいもの]にして海内万歳(かいだいばんざい)を寿き奉る。
然るに当時、藻女春秋(としち)長じ、17歳にもなりければ、花のかんばせ窈窕(ようちょう)[美しくしとやか]として、雲のびんづら
嬋娟(せんけん)[あでやかで美しい]たり。春の月明かりかなる、夜の桜暁(さくらあかつき)の芙蓉(ふよう)、夕暮れの海棠(かいどう)も及ぶべきにあらず。ことさら博学秀才歌道糸竹よりもろもろの業まで至らずといふことなく、発明にして心立てやさしく後宮の壷人と見へしが、いつの程にか帝叡慮をうつされ、寝殿にめされて比翼の御かたらひ浅からず。連鎖の御睦言、濃(こまや)かにして朝廷にのぞみ玉はず。深く宮中になって淫酒(いんしゅ)に長じ給ひけるにぞ、百官眉をひそめて議論紛々たり。
時に年立ちて元永3庚子[1120]年3月3日、例年の御規式(おきしき)として桃花の御宴曲水(えんきょくすい)[水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事]の宴をかねて行はるべきの所、去年5月28日、皇后【大納言公実公御息女璋子後待賢門院】の御腹に皇子御降誕、顕仁親王と申し奉る【後の75代の帝崇徳院、是なり】。よって后皇子ともに御遊宴あらせ玉ん。叡慮に
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[高陽殿(こうようでん)御内宴の図[参文A]
よって表向きの御儀式のみにして、「御内宴(ごないえん)は追って御沙汰あるべき」と勅錠によって、其の式ばかりおこなわれけるが、皇后王子いよいよ御健やかに御肥立(おひだ)ち在(ましま)すによって、同年秋の末、清涼殿に出御、公卿殿上人規式(しゅつぎょ、くぎょうでんじょうびときしき)の拝礼おわってのち、高陽殿(こうようでん)において御内宴の御催しあり。其の御席には皇子・顕仁(あきひと)親王、后璋子(きさきしょうじ)、関白忠実公(かんぱくただざねこう)、堀川左大臣・俊房公(としふさこう)、久我右大臣、雅実公内大臣(まさざねこうないだいじん)、忠通公(ただみちこう)其の外前官の大臣、両人当官の大納言3人其の外、詩歌管弦に堪能なる月卿雲客(げっきょううんかく)[公卿や殿上人、高位高官のこと]を余多(あまた)めされ、常に御寵愛深かりければ、藻女(みずくめ)も出て御宴に侍(はべ)り、官女あまた御酌に立ち、詩を賦(ふ)し、和歌を詠(えい)じ、終日の御酒宴たけなわにして管弦あり。
比(ころ)しも秋の末なれば、月まだおそき宵(よい)の空、雲のけしきすさまじく、うちしぐれふく一陣の風に建てつらねたる。燈台ひとつも残らず吹きけしたり。天子(てんし)をはじめ奉り、皇子后(おうじ・きさき)は申すにおよばず御座もそれと見へわかず、公卿殿上人驚きて、声々に「松明(たいまつ)」とくとくと呼り玉ふ。詞の下より藻女(みずくめ)は其の身の光を放って、真の闇なる高陽殿(こうようでん)忽(たちま)ち白昼の如く照りかがやき、杉戸屏風襖(すぎとびょうぶふすま)の絵までもありありと見へければ、人々「これは」といぶかしく奇異の思い晴れざりけり。帝はふかく叡感あり。
「藻女は生まれながらの秀才にして和漢の才にくらからず、聖教の旨も悟り心底くもりなければこそ、斯かることも有るらん」
とて其の坐において玉の一字を下し玉り。
「是に
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?は玉藻前(たまものまえ)とめえさるべき」
との詔(みことの)り実(げ)にも冥加の仕合せなり。在り合ふ公卿心の内には、藻(みずく)が身より光を放つこと古今聞かざることなれば、怪しむべきこと之、と諌め奉らんとぞんぜしかども、余りに叡感浅からざる折なれば、かさねて時を待ち奏聞(そうもん)すべし、と勅に応じいかにも凡人ならぬ玉藻のまへ御称美(ごしょうび)も理(ことわ)り之、と坐をつくろひ夜もいたく深(ふけ)ぬれば、おのおの御暇玉(おいとまたまわ)って、帝をはじめ入御在(にゅうぎょまし)ましける。
是より主上御心地例(しゅじょうみこころちれい)[地例=容態]ならざれども、別して玉藻の前の寵愛いやましにふかく、仮にも御側をはなし給はざれば、皇后の御方もかれがれになり、其の外御局がた御顧(みかえり)み厚かりしも、秋の扇と捨てられ、無念の涙に玉藻前を恨みそねまぬものなく、帝の御つれなきをかたちける。
然るに主上は昼夜のわからなく、三度五度、御物の怪くるわしく、さながら狂人のごとくにして伏しまろび、暫く御悩(おのう)[天皇の病気]あって又しづまらせ給ヘども、御色青く龍体(りゅうたい)やつれ給ふ。是によって典薬頭(てんやくのかみ)入れ替わり立代り、天脈(てんみゃく)をうかがひ医案(いあん)を尽くし配剤を奉り、御病根種々医論(ごびょうこんしゅしゅいろん)あって、霊薬を献ずれども其の功も見へ玉はず、諸寺諸山有験(しょじしょざんうげん)の高僧に仰ぎて御祈禱加持大法秘法(ごきとうかじだいれいひほう)を修(しゅう)せらるるといへども、さらにそのしるしなかりける。
[安倍泰親御悩を卜う[参文A]
此の年改元あって保安元[1120]年となる。ここに陰陽の博士の天算術(てんさんじゅつ)の長、安倍清明より六代の孫にて天文亀卜(てんもんきぼく)に通達せしが、帝の御悩日(おならび)を追って重らせ給ふこと心易から
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ず思ひ勅掟(ちょくじょう)はあらざれども、易室を清め、其の身を斎戒沐浴して卜筮を演(のべ)けるに先ず、坎
(かん)の卦(け)を得たり。坎は水にして陰気之。「隠れ伏す」の兆(きざ)しあり。人事に於いて憂いとし、心の病とし、禍ひ多しとし、盗人とす。
次に兌(だ)の卦を得たり。兌は少女とし、妾(めかけ)とし、口舌(こうぜつ)とし、殷折(やぶれおり)、とす。
ニ卦合わして澤水困(たくすいこん)[危機的な状況が過ぎ去ったあとに幸せが巡ってくる]の卦となる。追々変爻(おいおいへんこう)を得る所を判すれば、火天大有(かてんたいゆう)[我が世の春の時]を覆ひ地火明夷(ちかめいい)[無能をよそおい引き下がる時]薄く水山蹇(すいさんけん)[冬山で遭難したような時]甚(はなは)だしく、人倫(じんりん)を離れし異形、天子にそひ奉ること卜(うらなひ)のおもて顕然(けんぜん)たれば頭をかたふけ禁庭(きんてい)[宮中。皇居。禁裏]には八百蔓神守護(やおまんじんしゅご)あれば、諸神直宿(しょしんとのい)して守るがごとしなどか、斯(かか)る化生(けしょう)のちかよるべき、しかれども蓍筮(しぜい)の告ぐる所、聖主の明(めい)を夷蹇困(やぶりなやみくるしん)で、兌澤尽(だたくつ)きて、大有(たいゆう)の御位も傾き覆われんとあれば化生の魔畜(まちく)まさしく帝の御側に近寄ること相違なるべからず」と思ひ沈んで考へけるが、過ぎし高陽殿(こうようでん)の御内宴(ごないえん)に玉藻前身より光明をはなち闇夜(やみや)を白昼のごとくせしとなるは第一の不審(ふしん)之。しかも易のおもてに的中すれば、彼こそ化生障碍御悩(けしょうしょうげごのう)は、必ずかれがなせる業(わざ)ならんと。
[関白忠実公堪文(かんもん)の趣き、奏聞の図[参文A]
頓(やが)て関白殿下の館にいたり、易のおもてをもって、かようかようと申し上げ猶堪文(なおかんもん)[勘文=朝廷から諮問を依頼された学者などが由来・先例等の必要な情報を調査して報告(勘申)を行った文章]をしたらめさし上げれば、関白忠実公(かんぱくただざねこう)聞こし召され、
「いかにも去る事有るまじきに非らず」
と堪文のおもむき尤もに思し召し。其の儘参内有りて天機を伺ひ、播磨守泰親(はりまのかみやすちか)が申す次第をつぶさに奏聞(そうもん)ありけるに、玉藻前ものかげに忍びて一々うけ玉り。忠実公
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の前に来たって手をつかへ、気色を損じて申しけるは
「みづからことは朝恩厚(ちょうおんあつ)く蒙(こうむ)りし右近将監行綱が娘なり。いかんぞ主上を粗略に存じ奉り仇(あだ)をなし奉るべき。いかなれば泰親情けなくもかかる無実を申し上げるぞや」
と泣き沈んでうらみけるを殿下にはしらず顔して能程(よきほど)にあいさつし、やがて退朝(たいちょう)し玉ひける。
実(げ)に神国(しんこく)の徳あって、安倍家の妙算煩然(みょうさんいちじるしく)こそ思われけり。