p54-101
玉藻前 鈍亭魯文作『玉藻前悪狐傳』一盛齋芳直[=歌川芳直]画 

(18)藻女(みずくめ)に依って、行綱恩顧(ゆきつな、おんこ)を賜ふ #小町以上女房歌道名誉の話



行綱、勅免を蒙る図 [行綱、勅免を蒙(こうむ)る図[参文A]

 扨(さて)も人王73代堀川院の御宇勅免(ぎょうちょくめん)あって、ちょうていに本官に復せし北面の侍従五位げ左衛門尉坂部行綱、天恩をかんじ奉り、忠勤他事(ちゅうきんたた)なく励みけるに、主上御在位21年にして嘉承(かしょう)二亥[1107]年

p58-108
7月19日御宝算(ごほうさん)30歳にて崩御あり。
 同年12月朔日(ついたち)皇太子・宗仁親王御位(むねひとしんのうぎょい)につかせ賜ふ。鳥羽院(とばいん)是之。御母は贈大政大臣実季公(ぞうだいせいだいじん・さねすへこう)の息女、御諱(いみな)は苡子(しし)と称す。翌年改元あって、74代鳥羽院の天仁(てんにん)元戌子[1108]年とす。
当今の御代になって北面坂部行綱一階をくはへられ、右近将監(うこんのしょうげん)に転任せり。行綱、元来、地下(ちげ)の官人殿上するにあらざれば、叡慮(えいりょ)にかなひ奉る勤功(きんこう)あらずといへども、先帝の御世に娘の藻(みずく)めし出され官女となり、今は成長なし。容顔衆(ようがんしゅう)に勝れ、聡明英智ならびなければ殊の外叡慮に叶ひ、此のゆへに父行綱もかく昇進せしとぞ聞こへける。
 そのうち元永二[1119]年の春、行綱は身まかり、相つづひて夏母も身まかれば、藻(みずく)孤児(みなしご)となって、いよいよ御不便をくはへさせ賜ふ。抑々此の藻、大内へ召(めせ)れしはじめは、先帝より諸家へ下し賜る和歌の御題に人々案じなやみしを、此の藻、幼少にして御題に叶ふ秀逸を詠みて献じ、褒美によって天機うるはしくをもき勅命を蒙り、父の勅勘迄もゆるさせられしは、是全く和歌の徳による所されば、和歌は本朝の風俗にして神代には伊弉諾伊弉冉(いざなぎいざなみ)の二尊天の浮橋の御歌に権與(けんよ)[ものごとのはじまり]し、素戔男尊(すさのおのみこと)八雲の御歌より三十一文字(みそひともじ)の道世(みちよ)に弘(ひろ)く天神地祇(てんじんちぎ)[天地の神々]も感応ましまし。眼に見へぬ鬼神をも哀れと思はせたけき武士の心をも和らげ、歌の徳によっては厚く朝恩を蒙り、重き詔をかたじけなうせし官女、昔よりいくば

p58-109
くぞやなげて枷ふるにいとまあらず。
 ここに其の1、2をしるさんに、先ず其のむかし人王(じんおう)54代仁明天皇(じんめいてんのう)の御宇承和(ぎょうしょうわ)[834]年中の頃、参議・小野の篁(たかむら)の養子・左衛門佐従四位(さえもんのすけじゅう4い)出羽郡司小野良実(でわぐんじおののよしざね)の娘、容貌玉をあざむき、才智衆に秀で、幼少にして和歌を好み、詠ずる所、秀逸多しと内聞に達しけるにぞ殿上に召されん間、祖父・篁伴(ともな)ひ参内すべし、と詔(みことのり)なれば、畏(かしこ)まって小町を具して禁中(きんちゅう)[天子が住む宮中=禁裏(きんり)]に天顔を拝す。時に年7歳に、帝も其の美貌を叡感ましましけるいたづらなる若殿上人、いかに容顔麗しいとて和歌にまで達せんや。元より祖父・篁は博学多才、詩文巧みにして歌道に於いてもならびなし。愛せる孫のことなれば、自身の秀でし歌をおしへて少女の詠みしと披露なすにはあらずや。たとへ其の家に見ならひて歌よむにもせよいまだ7歳の少年、恋の情は得知るまじ。世にむずかしき恋歌をよみかけ、即席の返歌をのぞみこころみんと、思ひもよらぬ恋歌をあたへ返しを乞へば、たちまち短冊を手にとりあげよむとひとしく筆を染め、たちまち返歌をさし出す。此の体を叡覧あって
「高らかに吟せよ」
と詔に畏まって、大納言源融卿(だいなごんみなもととおるきょう)仕掛け歌ともに高声に吟じ玉へは、帝、御感(ぎょかん)あさからず
「あっぱれ、篁が孫なり。成長ののちこそおもひやらるる」
と深く御称美ましまし、
「以後は当座の御会に召さるべしと」
よって、采女(うねめ)[下級の女官]にくわへられ、所領として山科の郷を下し玉り、采女小町を

p59-110
玉る。篠右大臣源常公(しううだいじんみなもとつねこう)を以って勅命ありけるにぞ、篁面目をほどこし退出す。
 其の後又朝にめされし時、勅諚(ちょくじょう)有りけるは、
「小町ことは皇子の中へ配すべし。年頃になるまで篁大切に養育すべし」、
と誠に冥加にあまる仕合(しあわせ)車に乗じて朝を退きけり。主上、配偶あらせんと叡慮にかけさせ玉ひし親王は惟喬(これたか)にて在(まし)ませしとかや。
小野小町 [小野小町] 

是より小野小町とは称しける。
 然るにいくほどなく、嘉祥(かしょう)三庚午[850]年3月25日仁明帝(じんめいてい)御宝算(ごほうさん)41にて崩じ玉ひ、それより三年、文徳天皇(もんとくてんのう)仁寿(にんじゅ)2壬申[852]年12月22日小野篁も逝去なって当今、文徳天皇の御宇に小町の父・良実(よしざね)の位階を以って娘を親王に配せんこと叶はず。おのづから先帝の叡慮も等閑(なおざり)になりける程に、小町は世にも本意なく思ひ、是より恋るものあれとも見(みまは)ず、つれなくこそなりける。
小野小町、神泉の図
 [小野小町、神泉の図[参文A]

 惟喬親王もこれに同じく、小町の外は世の人にあはせ玉ふことなしとかや。其の後、貞観(じょうがん)14壬辰[872]年7月11日、惟喬親王御出家あって、山科の里、小野小町が館にとなりし別殿に蟄居ましまし。小町も昼夜御歌の御相人(おあいて)に出しと聞こへける。小町が歌道高名なること神泉苑において雨乞いの勅命を蒙り、従四位に叙せられ、后に准(じゅん)し、糸毛の車を賜り、名歌をもって天下の旱魃をすくひ清和天皇の御歌合せには「水辺の藻(うきくさ)」といへる御題を給わりて御会趣きけるに、歌の左右(あはて)は山城権守大伴黒主(やましろごんのかみおおとものくろぬし)にてありける。
所詮小町が相手に

p59-111
は及ばざるをうれへ、姉女(きじょ)に謀事を云いふくめて小町が詠歌をぬすませ、みづから案(いへ)の万葉集にあらたに傘入御会(かさいれおんかい)の席にて、小町が歌を「古歌なり」とさまたげしに、小町、殿上に申しあらそひ、すでに万葉集をあらたむるに墨色の新(あらた)なるをもって奏聞(そうもん)をとげ水にひたしてあらひしかば、書き入れし小町が歌は1字も残らず落ちけるにぞ。
 かかる不興のありしによって、其の日の御会は止みにけり。黒主は面目をうしなひ、夜にまぎれて都を逐電せしとかや、幼稚より70余歳にいたるまで歌道の名誉数ふべからず。
 ここに又人王68代後一篠院・長元(ごいちじょういん・ちょうげん)[1028~1036年]の頃、丹後守平井保昌(たんごのかみ・ひらいやすまさ)は丹後の国をおさめける。

和泉式部 [狩野探幽筆[和泉式部]東京国立博物館所蔵] 

其の室、和泉式部(いずみしきぶ)と云って、元和泉守橘道貞(もといずみのかみたちばなのみちさだ)の妻にて上東門院(じょうとうもんいん)【一篠院后】(いちじょういんきさき)の女房なりし、夫の名によって和泉式部と召され世に聞こゆる歌人なり。其の子も又上東門院に仕へ、内侍(ないじ)として小式部と召されし其の母、後に平井保昌に嫁して、夫婦ながら丹州[山陰地方、京都中部の一部]に下りける時、娘・小式部は都に舘[たち]に残りいし折から、内裏に当座の御会あって召されけるが、わかき殿上人、
「小式部が年もゆかで歌よむことは母の式部がよみてつかはすにこそ」
と大納言公任卿の息(そく)なりし、中納言定頼卿房(ちゅうなごん・さだよりきょうつぼね)の方(かた)に来たって、
「歌はいかがさせ玉ふ。丹後の母のもとへ人は遣はしけんや」
と戯れて立ち給へば、袍(ほう)の袖を引き留めて

p60-112
小式部内侍詠歌の図 [小式部内侍詠歌の図[参文A]

 大江山いくののみちの遠ければまだふみも見ず天のはしだて

と詠じけるにぞ、若殿上人袖ふりはなし赤面してかひ逃げ給ひしとぞ。
 母和泉式部、常に鰯を好みけるを夫保昌これを見て、 「鰯は下主(げす)の食べる魚(うを)なり。官女上臈(かんじょじょうろう)[上臈=年功を積んだ官位の高い人]などの食すべきものにあらず」
と笑われければ歌をもって答へをせしなり。其の言葉なるより、いわしを「おむら」と名付けて世に上臈達も食すとかや。

上東門院 『絵入 本朝美人鑑』より[上東門院] 

 又一篠院中宮【彰子(あきこ)後に上東門院】に仕(つか)奉り、
紫式部石山丹籠の図 [紫式部、石山丹籠の図[参文A]
紫式部 狩野探幽筆[紫式部]東京国立博物館所蔵] 
藤式部(ふじしきぶ)は左衛門佐藤原宣孝(さえもんのすけのぶたか)の妻にて、中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ)の孫父は、従五位下藤原の為時(じゅうごいのげ、ふじはらのためとき)之。博学にして和歌に達し、石山寺の観音へ参籠(さんろう)[祈願のため、神社や寺院などにこもること]して、湖水を照らす月の光に心を澄まし、源氏物語を編集して奉りけるに、叡感ことに浅からず、中んずく紫の上のことを一部にわたりてよく書きなしければ、色の最上紫といへる称を下し玉り、紫式部と召されて君の御用いも厚かりし其の娘も大弐成章(だいになりあき)の妻にて、後一篠院の御乳母なる故三位に叙せられ、大弐三位(だいにのさんい)と云って歌人之。
赤染衛門住吉明神へ歌を捧げる図 [赤染衛門、住吉明神へ歌を捧げる図[参文A]
赤染衛門 小倉百人一首[赤染衛門] 
 又、上東門院の御母后倫子(ごぼこう・りんし)の御方に仕えし赤染衛門(あかぞめえもん)は、大和守赤染時用(やまとのかみ・あかぞめときもち)の娘にて、父・右衛門尉たりしゆへ其の名を呼ばれ、大江匡衡(おおえのまさひら)の妻と成りて匡衡右衛門とも召されし之。
 ある時「四方(よも)の郭公(ほととぎす)」といふ御題にて歌を奉ることありしに案じ尽くして唯独り、笠に顔を隠し洛外に徘徊し、北は平野(ひらの)、南は伏見、東は粟田口。きのふもけふもあゆみて胸にうか

p60-113
ぶけしきもがなと工夫絶えざる時、北へゆき南へかへり東山に月のさし出るを、ふと心にうかみ「是ぞ和歌の御神の教へならめ」と四方(よも)を拝してかくなん。

 北にきく南にかへるほととぎす月の出入る山にこそなけ

これ又秀逸にして叡感ましましける。
 其の後、一子・大江峯周和泉守(おおえのたかちかいずみのかみ)にて彼の国の任をはりて後、病重かりけるに住吉の御たたりなめりと聞こえければ、

 かはらむと祈る命は惜しからで扨(さて)はわかれんことぞかなしき

とよみて幣(みてくら)[神前に供えるきぬ]らに書き、かの社に奉りければ、其の夜の夢に白髪の老翁、此の幣(ぬさ)をとると見しより、峯周(たかちか)の病癒えけるとぞ。  此の外、源頼光朝臣(みなもとのよりみつあそん)[武人で歌人。金太郎の上司]の御娘・相模守大江公資(さがみのもりおおえのきんすけ)の妻にて、入道一品の宮の女房なりし、相模周防守平継仲(さがみすおうのかみ・たいらのつぐなか)の娘、後冷泉院(ごれいぜいいん)の女房・周防内侍祭主大中臣能宣朝臣(すおうのないじさいしゅ・おおなかとみよしのぶあそん)の孫娘に伊勢大輔清原元輔(いせたいふきよはらもとすけ)が娘、枕草子を選し、清少納言紀伊守平重継(せいしょうなごんきいのかみ・たいらのしげつぐ)が妹にて後朱雀帝の皇女・祐子(すけこ)内親王に仕えし紀伊神祇伯顕仲卿(きいじんぎはくあきなかきょう)の娘にて、鳥羽院の后・待賢門院に仕え奉りし、堀川源三位頼政卿(ほりかわげん・さんみ・よりまさよう)の娘にて二条院に仕え奉りし、讃岐の如き数ふるに限りもなければ、其の高名のよみ歌はそれぞれの家の集まりにゆづりて、ここにもらすかくのごとくの女の歌読むも多かる仲に、藻女(みずくめ)は地下より

p61-114
出て殿上に交わり、幼(いとけ)なうして高名なる。又類なきこと之けり。


■19■ ■17■
inserted by FC2 system