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行綱、 「行綱、清水下向之図」

(17)坂部行綱、嬰女を拾ふ #藻女(みずくめ)、和歌を捧げて官女に補せらる



 去る程に、吉備大臣帰朝ありしは聖武天皇天平七[735]年、此の時謀って金毛九尾白面の狐は日本国に渡り、時を待って出べし、と通力自在を以って身をしのびけるが、時節を得ざること凡そ370余年、いたづらに身を蟄(ちっ)せしが、人王73代堀川院の御宇に当って、先帝白河上皇、北面の武士なりし坂部庄司蔵人行綱(さかべのしょうじくらんどゆきつな)と云うもの在り。
いささかの過失有りて勅堪(ちょくかん)を蒙(こうむ)り、山城の国山科のほとりに蟄居し、何とぞ勅免(ちょくめん)あらんことを願ひ、清水の観音へ誓ひをかけて、日毎に詣でけるが、頃しも、承徳(じょうとく)二戌寅年[1098年]弥生の半ばに参詣し下向にかられば、春の嵐にさそはれて散り来る桜は空にしられぬ雪と見まがひ落花行路を埋み、桃の薄紅、李の白さえ枝をまじへ吹き来る風もかんばしくめかれぬ。気色あなたこなたと徘徊(たちまわ)れば、音羽(おとは)の滝の清々と心意をすまし、更に世塵(せへん)をはなれし姿、北は祇園の甍高(いらかたか)く、下河原(しもかわら)広々と南をのぞめば稲荷山うたの中山清閑寺、今熊野鳥羽までも山つづきに立ちながめつつ、ちまたには荊棘(けいきょく)しげり、高樹(こうじゅ)は雲を凌ぎ、鶯の声も老い漁れる。鳩の音もさみしく月ろろう

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行綱、清水下向の図
 [行綱、清水下向の図[参文A]

つ、雉子(きじ)の驚声(きょうせい)も山路殊勝に気も済みて、普門品(ふもんぼん)[法華経第25品、観音経のこと]を読誦しながら帰るさに、かたはらなる藪陰(やぶかげ)に、当歳(とうさい)の児(こ)の泣き声聞こえしかば、坂部行綱、不思議に思ひ立よりみれば、七夜もたつやたたざると思しきみどり子、綾錦(あやにしき)の衣につつみて捨てありし。
行綱これを見て、
「中々下賤の捨て子にあらじ。いかさまにも公卿方の公達(きんだち)、若気の至りにて余儀なく心せば、くもかくははからひたるにてあらん。我当年40に近しといへども一子もなし。見るに生れも玉をあざむく女子、観世音あわれみ給ひてさづけさせ給ふ」
と覚ゆれば、抱きかへり、
「我が子にせん、」
と懐(ふところ)に入れ宿に帰り、妻、早霜(さしも)にかくと語りければ、其のままいだきとり見るに 「賤しからざる小児、まさしく高位の子と思れければ、これにうへこす幸いなし」、
と大いに悦び夫婦愛して実子の思ひをなしける。
 あらためて七夜の祝ひをなし、名を藻(みずく)とぞ付けたりし。其の心は、拾い得たる児(こ)なれば、其の胤(たね)を知らず、水草の生ずるも其のたねをしらず、藻(も)は藻(うきくさ)にして「みくず」と訓(くん)ずれば也。
行綱夫婦、七夜を悦びす図
 [行綱夫婦、七夜を悦びす図[参文A]

 しかるに藻女(みずくめ)年月を経るにしたがひ健やかに成長し、容顔美麗、たぐひなければ一し月夫婦の溺愛浅からず、今年わづか7歳なりけれども、行儀正しう、発明衆にたえ、智恵ふかく、一をおしへて十を悟る。手習いものよみはいふもさら也。歌書を⑤らんし、学(まなば)ずして和歌をよみ、文学をおのんで諸芸秀でけるほどにみな人驚かずというふもの

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なし時に、長治元甲申(ちょうじがんこうしん)[1104]年春の半ばのことなりし。
主上(しゅじょう)より堂上堂下(どうじょうどうか)[御殿の内外]に御歌の題を給り、「独り寝の別れ」といふ意をよみて奉るにそ有りける。ひとりなになんぞわかれのあるべきや、これ全く御難題にしてよみ人の智をはからせ給ふ。叡慮(えいりょ)にやと、后、内侍、親王、公卿、堂下(きさき、ないじ、しんのう、くぎょう、どうか)に至るまでさまざま案じよみなしても其のこころ御題に通はざれば、程なく勅命の日限におよぶといへども誰あって献(たてまつ)る方(かた)もあらずと聞こへけり。
 藻(みずく)はこれを誰にか聞き知りたるらん。父行綱の前に出しとや、かに申しけるは
「上皇に御勤仕(ごきんし)おはせしとき、不慮の御あやまちによってはからずも勅勘(ちょくかん)を蒙(こうむ)り給ひしより、斯かるわび、住居にさぞや御心も屈し給ふらん。何卒、勅免(ちょくめん)も有って本(もと)の如く晴れたる御身となり給ふやふ、とあけ暮れ心をいたむけれども、幼少の女の心におよびがたく、歎(なげ)くにかいなくすごせしが、此の程うけ玉りそうらへば、先達てより御歌の題を出され、堂上堂下后内侍(どうじょうどうかきさきないじ)のめんめん詠歌(えいか)を奉るべき勅諚(ちょくじょう)なれども、お題むづかしく、おのおのなんじ謂(ととの)ひかねてや其の日限におよへども、奉るかたも無し由、ここに於いてわらは密かに一首の和歌をあんじ詠みたりしを、冥加(みょうが)の為に献(たてまつ)り、蔓一叡慮(まんいちえいりょ)にも叶ひなば、父上の勅勘ゆるさせ玉ふこともやならん。何とぞ此のよし御歌奉行(おうたぶぎょう)の卿へ御披露ましまし、御歌所(おうたどころ)へめし出され、詠歌を献(たてまつ)るやうにお願ひ有って給れかし」 と懇ろに申しにぞ。

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父行綱、娘が背中を撫でさすりやさしくも、 「能(よく)云いし。いとけなき身のかくまで心を尽くし、親を大切に思ふ孝行の心ざし忘れをかす、満足せり。」
猶、成長の後までも其の心の通れかし去りながら
「汝、これまでしかじか和歌の道も学ばずして、帝の御題なんぞ軽々しくよみ奉らんや。此の度は延引(えんいん)しかさねて、折を得る事もあるへければ、其の内には歌の道をも学び法をあきらめ、父が為に奉れよ」
と教訓しければ、藻(みずく)はひれふし
「仰せもつとも左こそあらんと存じそうらひし。わらは年いとけなしといへども何ぞや朝廷を恐れ奉らざらん。又親を粗略にぞんずべきや御難題とうけ玉り人に問へば「ひとりねのわかれ」といふ御題とかや。これ難題とは申すべからずよって、わらは一首を詠ぜし所、心に秀逸とぞんじぬればなどか叡勘を蒙らざらん。たとへさまでにこそ至らずとも叡慮にそむける歌にあらず。たって御ねがひ下されかしこと、あながちに思ひ入っていひけるにぞ常々の才能といひ、殊更幼年のことなれば、少しくあやまりあるとてもゆるさせ玉ん」
とついに娘が言葉にまかせ、父行綱、日頃懸命玉りし御歌奉行・烏丸大納言光兼卿(おうたぶぎょう・だいなごんみつかねきょう)の館にいたりて長臣に対面し、しかじかの次第をのべねがひの趣きを頼みけり。長臣さっそくお聞きに達しければ、
「幼きものの奇特なる事ながら、其の方勅勘のものなれば早速にも取り斗(はから)ひがたし。先ず先ず娘を連れ来たり。自分方に

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清涼殿におもねく藻女、和歌を奉る図
 [清涼殿におもねく藻女、和歌を奉る図[参文A]

さし置くべし。其のうへにてよろしからんや。?にはからひ得さすべし」、
とあるにぞ、行綱拝謝して我家にかへり、藻女をともなひ早々に烏丸家に至りあづけ奉りけるが、程なく烏丸光兼卿には御同列蔓野小路前大納言広房卿(ごどうれつ・までのこうじ・前だいなごん・ひろふさきょう)に御相談あって、御歌所花山院内大臣雅実公(おうたどころ・かざんいん・ないだいじん・まさざねこう)へ拾うなし、関白殿下忠実公(かんぱくでんか・ただざねこう)のお聞きに達されたる?へ奏問(そうもん)とげられけるに日あらずして召し具し、参内あるべき旨、勅宣(ちょくせん)下りて、両卿は7歳になる藻女(みずくめ)を衣服取りつくろはせ、内裏にめしつれ参り賜ひ。  御車(みくるま)よせより昇殿あり。藻女は幼少なれども地下のものなればうかかひの上奥(うえおく)の女蔵人口より召され、清涼殿のうち縁ぎはにさし置かる。主上はかしこの高御坐に出御(しゅつぎょ)あり。后内侍官女たち羅綾綺繍(らようきしゅう)五つ重ねに緋の袴、女嬬(にょじゅ)[後宮の下級女官]の面々粧(よそお)ひをかざりしたがひ供奉(ぐぶ)[お供]し、並居たり、公卿百官(くぎょうひゃっかん)は階(かい)まで列座して威儀堂々(いぎどうどう)たる御形相(おんありさま)厳重にも又めざましく、それにかかふ斗(はかり)なり。此の時に御歌所雅実公(おうたどころまさざねこう)は、奉行光兼(ぶぎょうみつかね)卿、弘房(ひろふさ)卿に御詞(おことば)を伝へられければ、正六位(しょうろくい)の殿上人(でんじょうじん)こころえ、硯短冊柳箱(すずりたんざくやなぎばこ)を取りそへてさし出す。両卿、藻女をめして渡さるればいまた幼年7歳の女子、是を受け取り、元の席に着座せし姿となりゆふにやさしく見へければ、座中の公卿、官女をはざめ涙をながして感ずる斗(ばかり)之。
 されども幼稚のものの詠歌なれば、いかがあらんと思ひけるにぞ、息をつめて見て

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あれば、藻女はしづかに墨すり流し、筆を染め、短冊を取っていただき、さらさらと書き下せり。

夜やふけぬねやのともし火いつかきえて我かげにさへわかれてしかも

持ち出て、両卿へ奉れば、雅実(まさざね)公へさし出さる。雅実公、御手にとられ高らかに詠吟(えいぎん)あって、うやうやしく主上へささげられけるにぞ、
「歌のすがたの秀逸なるのみか、手跡までも麗しく叡感(えいかん)ことに浅からず、有合(ありあう)公卿殿上人、感ぜぬものこそなかりける。まれなる才智の女子なり、くるしからざる間其のまま仕へ奉るべし」
と重き勅命を蒙り、
「是全く父母の養育による所なれば、彼が父をもよきにはからひ得さすべし」 とあって、境遇を勅免(ちょくめん)のみことのり、坂部庄司蔵人行綱、以前の如く北面になし下され、本官に復し、従五位下(じゅうごいのげ)左衛門尉(さへもんのい)に還任せられ、生前(しょうぜん)の面目をほどこし、烏丸家の厚情と蔓野小路・花山院(までのこうじ・かざんいん)両家の実義を感じ、実に清水国通大士(きよみずこくつうだいし)誓ひ、仇(あだ)ならぬ恵みの程ぞなりがたき。

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