p50-92
玉藻前 国貞筆「玉藻前」

(16)吉備大臣帰朝 #妖狐謀って日本に渡る



遣唐使・広成、吉備公、玄昉、帰朝の御服を給る図 [唐使・広成(ひろなり)、吉備公、玄昉、帰朝の御服(おいとい)を給る図[参文A]

扨(さて)も吉備大臣(きびだいじん)は唐土(もろこし)に在(あ)って、帝の称美あって英智をかしこに輝かせし時に人皇45代聖武天皇、天平4壬申(みずのえさる)年、多治比(たちび)の広成(ひろなり)遣唐使として入唐し、同7年乙亥年3月帰朝せしが、此の節、吉備大臣#に先年入唐せし玄昉(げんぼう)僧正もともに帰朝を願ひけるにぞ、唐の帝も名残をおしませ玉ひ、珍器

p53-99
若藻女、吉備公の船に乗り日本に渡る図
 [若藻女(じゃくそうじょ)、吉備公の船に乗り日本に渡る図[参文A]

珍物名産の数を尽くし、珠玉織物あまたを餞別(はなむけ)あって、両人辞し別れ奉り、唐の湊(みなと)に帰帆の船をよそをひけるに、唐の帝より馳走として御座舟供船(ござぶね・ともふね)はなやかに水主舵取り究竟(かこ・かじとり、くっきょう)なるをえらひて、残る所なく手当てあって、順風に帆を揚げ洋溟(うなばら)はるかに漕ぎ出しけるが、2日2夜ほど過ぎて後、吉備大臣の御座船に28ばかりの美女、黙然として端座せり。
 是を見て驚き、吉備公婦人にむかひ
「汝いかなるものなれば、断りもなく乗船し何者なるや。」
と問いければ、女こたへて、
「妾(わらわ)は玄宗皇帝の臣に司馬元脩(しばげんしゅう)と云るものの娘にて若藻(じゃくそう)といふもの之。君かねて唐にあらせ玉ふ節より成長までもましまして帰朝なし玉はば、日本に具し玉らんことを願ひ奉らんと年来心にかけたれども、父母にかくし妾が心ひとつにして願ひ奉るとも、中々取りあげゆるさせ給ふこと有まじ、と出帆の以前、密かに打ち乗り両日御船の底に忍び隠れ在りしが、もはや沖遥かに出船ましませば、時節よしと立出でそうらへ之。あはれゆるさせ玉ひて日本の地までつれさせ玉へ。もし許容ましまさずんばいかにせん。海底に身を没して空しく鯨鮫(けいげい)の餌になるへし。」 と号泣してねがひける吉備公いぶかしくも又悦び玉すといへども、
「帰朝の海路大海漫々たる波濤(はとう)に漂ひならひたる船の追い風にはしるにのぞんでいなといはば、少女を没死せしめんも不便さ心ざはりせん。」かたなく側近くま

p54-100
ねきよせ、
「誠に女の智恵にこ⑤さまで思ひつめての願ひ早くも斯くといはば、船底にて艱難(かんなん)もすましきものを日本は何(いず)れの国を心ざすや、乗せ至らんことはいと安し。去りながら父母の国をはなれ、さだかし心うく[憂く]思ふらん。次の間に在りて心ままに起き臥しすべし」
と宣へばかの少女はさも嬉し気なる体にて礼拝して悦びぬ。
 続く日和の追い風に十分に帆をあげ船路しづかに走りつつ、程なく筑前の国・博多の津に着船し、駅館(えきかん)にやどり給ふ。少女もともに船より上がりしが、駅館までもしたかひ至らず、いづくへ行きけん。跡方(あとかた)も見へずなりけるにぞ、吉備公あやしみ給ひ、
「是まで召(め)し具(ぐ)[連れ]し来たりて、もし異変もありては便なし[けしからん]」
と此処かしこ尋ねさせ玉へども、更に見へざれば不思議ながらももとめて具され[連れてこさせられた]しものにもあらず、棄て置かれて唐土の送りの船を返し、筑前よりは其の地に船の用意ありて、凪を待ちて帝都をさして出帆し玉ふ。
 かの船中にあらはれてなきねがひてともなはれし女こそ、殷を亡ぼし、天竺・耶竭国(やかつこく)を傾けんとし、それより周を危ふしたりし金毛九尾白面の狐。褒姒の生みし伯服に精(たまし)ゐをつたへ、婦人となって吉備公を偽り、倭(やまと)へわたりし方便(てだて)なりと後にぞ思ひ合わされけり。
 かくて吉備公は元正帝(げんしょうてい)の養老5年より聖武帝(しょうむてい)天平(てんぴょう)7年まで、唐に停留あること15ヵ年。玄昉(げんぼう)は霊亀(れいき)2年に入唐20ヵ年にして、恙無(つつがな)く帰朝あり。遣唐使・広成(ひろなり)ともに各々参内(さんだい)して天顔(てんがん)を拝し奉り、冥加(みょうが)[幸運]の慶び眉(まゆ)に余りて見へける。吉備公、多才英智にして唐より種々(しゅしゅ)のことをつたへ帰りて日本に弘(ひろ)め給ひ、後代の今に用いるわざ多しとかや。

遣唐使帰朝、参内の図
 [遣唐使帰朝、参内の図[参文A]



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