p50-92
遣唐使船 「上海万博に際し復元された遣唐使船」ウィキペディアより

(15)仲麻呂の亡霊、吉備大臣を佐(たす)く #吉備公野馬台の文を読む



 夫(それ)日本は国常立尊(くにのとこたちのみこと)[日本神話の根源神と去れている神]
国常立尊「国常立尊」

より天神七代地神五代の統(とう)をつがせ給ひ人王の始め、神武天皇[日本初代天皇]
神武天皇 [月岡芳年『大日本名将鑑』より神武天皇]

と申し奉るは 鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
鵜葺草葺不合尊 [国立国会図書館蔵『万物雛型画譜』より鵜葺草葺不合尊]

・第四皇子、御母は海神(わだつみ)の女(むすめ)・玉依姫(たまよりひめ)之。
玉依姫 [吉野水分神社蔵「玉依姫坐像」国宝]

天皇の御諱(おんいみな)は神日本盤余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)と称す。15歳にて太子に立ち、52歳にして辛酉年(かのととりどし)[現行暦で換算すると紀元前660年2月11日]正月御位に即(つか)せ玉ひ、位に在(います)こと76年、都を大和の国畝傍山(うねびやま)に造られ、是を橿原(かしはばら)の宮と号す。踏鞴五十鈴姫(たたらいそすずひめ)を皇后とし、天種子命天富命(あめのたねこのみこと)ならんで政事を執、国風正直(こくふうせいちょく)を専らとし、審義をもって黎首(とみ)を導き、智仁勇の三徳を以って国家を治め、武を磨きて賊を鎮む。
遣唐使渡海の図 [遣唐使、渡海(とかい)の図][参文A]

 小国といへ共、万国に秀づされば往昔(むかし)異国より謀(はかり)伺うこと有りといへ共、敵することあさはかぞ。是、神武の国、正直の徳によれり。ここに人皇44代元正天皇[女帝]の御宇礼亀に丙辰年8月[養老元年・717年~養老2年・718年] 多治比県守(たじひのあがたもり)
藤原宇合 [『前賢故實』より「藤原宇合」]
・藤原宇合(ふじわらのうあい)を遣唐使として渡海せしめらるるに、其の節、

阿倍仲麻呂 [『前賢故實』阿倍仲麻呂]
阿倍仲麻呂

玄昉僧正 [法相宗筑紫観世音寺「玄昉僧正」]
・玄昉僧正と共に入党せり。

此の時、彼の国は唐の第6代主・玄宗(げんそう)皇帝、開元4年[716年]なりしおのおの
玄宗皇帝 [国立国会図書館蔵『歴代君主図像』「玄宗帝」]
玄宗帝にまみへ

p50-93
使命をおはり、帰朝しけるが、仲麻呂・玄昉僧正(なかまろ・げんぼうそうじょう)2人、其の才、衆に秀で、博学なるを惜しみ給ひ、彼の地に留め置かれける。或るとき、玄宗帝、乾元殷(げんそうてい、けんげんいん)の楼閣にかの2人を召され、黄門監(こうもんかん)[古代中国の役職名。日本における大納言、大臣の副官]・宗係(しゅうけい)[人名]御史中丞(ぎょしちゅうじょう)[御史大夫の補佐官]・宇文融(うぶんゆう)[人名]等、侍って詩文を作らしめ玉ふに仲麻呂・玄昉の佳作を感じ玉ふとかや。かくて仲麻呂に秘書監の官を給ひ、姓名を朝衡(ちょうこう)と改められしが、其の後、帰国の願いをゆるされ、明衆(みんしゅう)の津に船出する時、唐にて心易く交わりし人々、
李太白 [李太白]
李太白(りたいはく)[詩仙といわれる名詩人]

王維 [王維]
・王維(おうい)[詩仏といわれる名詩人、画家・書家・音楽家]・包佶(ほうきつ)[詩人。医師・副大臣]が、輩(ともが)ら送別の詩を作りて別れをおしみける。此の時、海の面に月のさしのぼるを見て、我が国にては神代より三十一文字(みそひともじ)をいてかかる歌をこそ詠むなれとて
仲麻呂にあって和歌を泳(えい)する図 [仲麻呂にあって和歌を泳(えい)する図[参文A]

阿倍仲麻呂 [月岡芳年『月百姿』の阿倍仲麻呂]

天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出し月かも

 此の秀歌、『古今和歌集』より『百人一首』にも取り上げ玉ひ、普(あまね)く人の知る所之。
 然るに海上風波類に起(おこっ)て、仲麻呂の船、空しく唐土に吹き漂い、帰国すること叶はず。是より異朝にとどまって、ついに彼の地に崩じけり去る。
吉備真備 [『吉備大臣入唐絵巻』]

 程に本朝、養老五辛酉(ほんちょうようろうごかのととり)[721]年、吉備大臣遣唐使を命ぜられ、入唐しけるに、是又秀才博学にして及ぶものなかりければ、唐帝深く是を感じ、何卒唐土にとどめ給んと思し召しければ、吉備大臣の才知をはかり、何にても彼が及ぶべからざる所を見せしめ、其の事を伝えんと宥めて、唐土にとどむべし、と工夫ありけるに、日本に未だ囲碁を知れるものあるべからざる。明日勅して張説(ちょうぜつ)[唐代の政治家・詩人]と囲

p51ー94
日本の吉備大臣、唐の張説と囲碁を囲む図 [日本の吉備大臣、唐の張説と囲碁を囲む図[参文A]

碁をなさしめ吉備を負かし、唐の人の智恵を見せしめて留めんこと」
此の旨を命ぜられけり。吉備大臣は客館に在りて、
「囲碁の工夫をめぐらされけれども、ついに手馴れぬ術にして唐人に及ばずんば、我が日本の恥辱之。いかがせん」
と心を屈し、灯火の下に黙然として案じつづけ玉ふ所に、忽然として映る姿は阿倍仲麻呂なりければ、吉備公声をかけ、
「足下は仲麻呂ならずや、絶えて久しく別條(べつでう)あらざるを見て悦びに絶えず。足下既に此の地に崩(こう)ぜられし」
と聞く。
「三笠の山に秀歌を日本につたへて記念(かたみ)なり」
と落涙せしをといはれければ、仲麻呂涙にむせびつつ
「有りし事ども物語下官ははやく冥土の鬼となれども、朝恩の為に来たって公に力をそふる之。
 明日張説と囲碁の会あらば、足下果たして後れなん。抑々(そもそも)棋局盤面493白6個黒白の小石360個有りて一歳の数に象(かたど)り、石に黒白在るは月光と月魄(げっぱく)[月の精]に象る。是を採って互いに盤面に置く時、両目相続くを生とし、続かざるを死とす。其の術(てだて)は斯くの如しなし給へ。明日、盤面に向って勝利心に浮かむべし。
 其の後また野馬台(やまたい)の詩をよましめ、文才を困(くるし)ましめんとす。是又其の後に至って文の続く所を知らしむべければ、慮りを休んぜられよ」
と告(つぐ)るとみへしが、煙の如く幻のごとく、有りし仲麻呂の姿は消えて失せにけり。吉備公、其の節義を感じ、仲麻呂の消えし方を三拝し、少し心労を案じ給ふ。
 明くれば吉備大臣を殿中に召し、張説と碁を囲

p52-96
吉備大臣 [吉備大臣、野馬台の文を読む]

吉備大臣、野馬台の文を読む [吉備大臣、野馬台の文を読む[参文A]

ませ帝叡覧(みかど、えいらん)あれば、諸官列座して誠に目映(まばゆ)く、晴れがましき勝負之。吉備公、盤にむかふに勝利自然と心によろこびて即席に続きて打ち勝ちけり。頓(やが)て李林甫(りりんぽ)[唐代の政治家・皇族。絵画に優れていた]一紙に書せし詩を出し、吉備公の前に置き、
「是を貴国の未来に誌(しる)せしもの之。読み給んや」
と吉備公手に取りあげて見るに
野馬台の文[野馬台の文]

p52-97
字々明白なれども句読弁(くどくわきま)へがたく、さらに解(げ)しがたし。
「読み得ずんば日本の恥辱なり」
と幾度か思ひをこらし考へけれども、いづれより読み始めいづれに読み終わって義理通ずべきや。ほとんど其の首尾も分かたれず案じ入らるる時に、天井より小さき蜘蛛下がり来たって、文の上に落ちなかばに留まりけるが、それよりも縦横に文字をつたひ、返る字は飛び越え、糸を引いて歩む行くにぞ、吉備公、眼もはなさず是にならひて読まるるに、文面明らかに悉く分かりしゆへ、高らかに読み終わりけるにぞ、唐の帝をはじめ、列候の諸官に至るまで、
「日本小国といへども其の才知唐土の及ぶ所にあらず、此のうへはあくまで賞美し恩を施しあたへてとどめん」 と。
 ある時、吉備公を召され
「汝の秀才博識感心するに余りあり。仲麻呂・汝ごとき学才は、日本にも稀ならん。」
と宣(のたま)ひければ、吉備公、謹んで申しけるは
「小官なんぞ博(ひろ)く学ぶと宣(のたま)ふや、我が国にて入唐使を命ぜらるるは足らざる所をも学び熟して帰朝せんと、此の国を頼母(たのも)しく、学問の未熟なるを使いたらしめ給ふ之。」
と答えしに、唐の帝いよいよ驚き、
「唐朝の諸臣学問足らず、才愚かなり。日本に見下さずんば残念なり。」
と吉備公の心中にも恥じて留めん。
「心を止(やみ)玉ひしと

p53-98
かや実に英知の一言は君命を辱めず」
と後の代々(よよ)も称美せり。
 此の時読ませ給ひし文は、梁(りょう)の代に宝誌(ほうし)和尚と云う碩徳博識(せきとくはくしき)[徳崇く学のある]の僧[奇行の僧。しばしば予言をした]なり。
 然るに、いずれよりか日毎(ひごと)に天童(てんどう)[仏教の守護神や天人などが子供の姿になって人間界に現れたもの]一人、かわるかわる来たって、一字宛(づつ)を書して去ると、120日に120童(どう)来たって120字を書し、其の後来たらず、宝誌、是を集めみれば、一賦(ふ)の文となり、読めば日本の事を延べたる故、野馬台(やまと)の文と号(なづけ)し之。
 梁(りょう)の代はるかにして唐となれば、習わずしてたやすく読みものなかりしを、吉備公はじめて明らかに読れしとかや。

 私云、仲麻呂・吉備公入唐野馬台の文とも、ここに述る所は婦女子を慰せんが為、世俗の説を改す。年暦時代#野馬台の文を委しくせんとならば、愚が述る所、野馬台詩国字抄一冊書肆星運堂刊行して、世に行る詩の句毎に国字(かな)をもって講釈あり。中に続日本紀新唐書回唐書より取て、仲麻呂の異傳(伝)を附す。


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