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褒姒「褒姒」

(14)褒姒、周に幽王を昏迷せしむ #犬戒(げんじゅう)の兵、幽王を弑す



 周の第13主・幽王と申すは、人となり暴戻(ぼうれい)にして恩、寡(少)なく、賢臣を嫌碑、妓人(ねいじん)を愛し、政道正しからざるゆへ、賢良の諸臣眉をひそむる時に三川の地山崩れ、川竭岐山(かわつきぎさん)崩るるにぞ、趙叔帝(ちょうしゅくたい)、
「天変(てんへん)打つづくは、乱の兆し之」と。
王の民を恤(めぐ)み、政事の正しからんことを諌め奉るに、虦石父(くわせきふ)と云い佞臣、
「山崩れちふるふは常のこと之」
と申すによって、王、趙叔帝を怒って官を削りて田里に帰らしむ。
 諌議(がんぎ)大夫・褒珦(ほうきょう)諌めて曰く、
「天不祥を現ずるは、王の仁恵なく動静常なきを戒むるゆえん之。且つ叔帯(しゅくたい)[=趙叔帝のこと]は賢者之。官を罷(やめ)給ふべからず」
と。幽王大いに怒って褒珦を獄に囚らえしむ。
 此の褒珦といへるは、褒城(ほうじょう)の人なりしが、故郷の妻子を囚らるるを歎き悲しみ、いかにもして救い出さんと謀る所に、褒城の小民に一人の女子を養ふ。其の生まれつき清麗(せいれい)類なし。家貧しく衣食足らざれば、毎(つね)に
「此の女を人に売らんとす」
と聞いて、百金に買いとり粧(よそほ)ひ飾り、褒珦が子・褒洪(ほうこう)、朝廷に至り奏しけるは、
「臣が父無用の諌めを奉りて、天威に逆らふ故郷の親族、悲嘆に堪えず。美人を献じ罪を贖はんことを願ひ奉る」
と幽王召し出して見給ふに、其の年14歳、儀容矯(ぎようたおや)かに媚たり。王、大いに悦び、速やかに褒珦を免じ国に帰し、美人を受け、其の褒の地に出たるを以って、名を褒姒と玉ひ、後宮に入りて寵遇厚く、朝夕淫楽に耽り、国の政事を荒み給ひ、余さへ是が為に皇后・申氏(ぶんし)、其の生み玉ふ太子・宜臼(ぎおう)ともに廃し、褒姒を立て正皇后とし、其の生む所の伯服(はくふく)を以って太子と定む。
 然るに幽

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王、翠花宮(すいかきゅう)にあって、日夜褒姒と楽しみをなし玉ふに、褒姒終に口を開いて笑うことをせず。幽王、密かに虦石父(くわせきふ)と謀って、
「汝よく彼をして一たび笑しめば、千金を持って賞せん。」
『周の幽王、烽火を挙げ、褒姒に戯れふ図』『周の幽王、烽火(のろし)を挙げ、褒姒に戯れふ図』[参文A]

 ここに於いて、一つの謀事を献じけるは、先王皇城の外、五里つつに一つの烽火台を置き、帝都に事ある時は烽火を挙げて烽火とし、四方の諸侯に兵を召して救はしめんが為なるに、数年太平にして其の事なし。
 大王、
「明日烽火をあげて皇后を歓ばしめ玉へ」
と、幽王大いに悦びを、其の事を命ぜらるるに群臣諌めて、
「烽火を先王の制する所、緩急に備へ、信を諸侯に取らしむるゆえん之。今故(いまゆえ)なくして是をあけば、他日もしことありとも何をもって急を救はん」
と申し上げけれども、更に用い玉はず、遂に烽火を所々に揚げさせて、幽王、褒姒と共に望渡楼(ぼうべんろう)に出て是を見るに、京(みやこ)近き列国の諸侯みな兵を引いて至るに、さらに王城に事なし。褒姒楼上に在って諸侯に戯れる。
「何ぞ王位久しからん」
と罵って帰る。斯くのごとき非法重なりける程に諸臣諌めを奉れば、すべて誅して赦さず。
「褒姒がいふ所したがはず」
と云ふことなく、前の皇后・申氏(しんし)の弟・申候(しんこう)も諫めを奉るによって、申皇后(ぶんこうごう)廃せられ、嬪御(ひんぎょ)の内にありしを獄に囚へ、申を伐って亡ぼさんとし給ふに、申候大いに驚き、兵少なく、防ぐべき力なく、其の国・西夷(せいい)の犬戒(けんじゅう)[西方に住んでいた遊牧民族]に近ければ、是へ救いを求めけるに、犬戒王、兵数万を

p49-91
『犬戒、周の都城に乱入の図』『犬戒、周の都城に乱入の図』[参文A]

引き、忽(たちま)ち京師(けいし)[帝王の都のこと]に殺奔(さっぽん)[勢いよく走ること]して皇城(こうじょう)を十重二十重に取り囲む。
 幽王、大いに周章(あわて)烽火を揚げしめ、諸侯の兵を召せども、「又戯れならん」と一人の救いも至らず、遂に犬戒(けんじゅう)、城中に乱れ入り、火を放って宮室(きゅうしつ)を焼き立てるに依って、幽王は皇城を逃れ去り、離山の下に至り玉ふ。戒の兵、追い至って幽王を弑(しい)し奉る。王位に在ること11年にして戒の為に亡ぼさる。
斯くて、申候(しんこう)犬戒王(けんじゅうおう)とともに、
「幽王の無道は褒姒がなす所なれば、逃すべからず、」
と翠華楼(すいかろう)に入り、褒姒を捕らえ、引き出して首を斬らしめ、其の宮中の嬪妃(びんひ)殺さるるもの数を知らず。
 犬戒王は城中に在って、庫蔵(こぞう)の宝物をとり掠めけるに、漸々(ようよう)にして、鄭(てい)の桓公(かんこう)、秦の襄公(じょうこう)、晋(しん)の文公(ぶんこう)、衛(えい)の武公(ぶこう)等救ひ来て、桓公は乱軍に戦死し、其の子、掘突兵(くつとつへい)を引いて犬戒を追い払ひ、京師の乱を静め、諸侯ら相議して元の太子・宜臼(ぎおう)を立て、君とす。是を周の第14主・平王(へいおう)とす。
申(しん)候は止むことを得ざるに出て、元来直臣といひ平王の御母方の伯父たれば尊みて申国公とす。此の乱より殊に周の天下大いに衰へ、平王、終に鎬京(こうけい)を捨て、都を東洛邑(ひがしらくゆう)[現在の洛陽]に遷し玉ひ、是より東周(とうしゅう)と号せしが、是より諸侯の勢い盛んにして帝位はますます衰弊(すいへい)せり。然れども、朝廷の政事正しければ、万民安堵の思ひをなしけり。
 此処に褒姒が生める伯服(はくふく)は、母の勢いに乗じ、太子に立てられしが、犬戒の乱に庶人となして都を追い放たれ、母の出たる褒の地にさまよひ、土民となりて在りけるが、妖狐の精の遺(わすれ)がたみのゆへ、怪しきこと

p50-92
『伯服、美女と化し、跡を暗江図』『伯服、美女と化し、跡を暗江図』[参文A]

のみなるにぞ、郷民(ごうみん)これをいとひ、其の地を払はんとせし時、忽ち美麗の婦人と化し、いづくともなく跡をくらましける。
 周室は乱起こりて君臣正しく、又も傾けんこと容易にあらざれば、
「時節を待って日本に渡るべし」
と悪孤は影を潜めけり。


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