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(13)周廬氏、懐妊19年にして産す #悪狐再び唐土に化生す



周・宣王 周・宣王

 此処に周の宣王[周11代皇帝]と申すは、武王12世の孫にて御諱(おんいみな)は静と称す。中興賢明の君にして世学(よこがく)て尊崇せり。
 然るに或る時、京中の児童、晩に至れば手を拍(う)って巷に謡言(ようげん)[うわさ・はやりうた]す。其の歌に

『周の都の児童、街に謡ふ図』『周の都の児童、街に謡ふ図』[参文A]

 月将昇 (つきまさにのぼらんとす)
 日将没 (ひまさにぼっす)
 桑弧箕服(やまくわのゆみかのきのやえい)
 実亡周国(じつにほろぼすしゅうこくを)

 此の歌を叡聞(えいぶん)有りて驚き給ひ、群臣に問せ給ふ。左宗伯召穆奏(さそうはくしょうもくそう)していわく
「月昇らんとるは隠盛(いんせい)なる之。日の人、君の象(しょう)にて没(いら)んとするは不祥之。
 後世、女王国家を乱り、弓箭(きゅうせん)[弓矢]の禍いならんと卜(うらな)ひけるにぞ。」
 宣王、
「宮中嬪妃(きゅうちゅうびんひ)の中を吟味して、怪しきこともなるや」
と尋ね給ふに、
「先王【厲王なり】[周10代皇帝] の宮内に廬氏(ろし)とて25歳になりける嬪娥(ひんが)[ベッピン、美人]あり。懐孕(かいよう)18年にして、此の頃女子を生めり。」
と聞き給ひ、怪しと有って廬氏を糾明し給ふに答えて申し上げるは、
「先帝厲王(れいおう)巡狩の行幸なりけるが、道のかたはらに二つの塚、一つに碑あり。其の銘あれども、その意味弁(いみわきま)ふべからず。其の故を尋ねさせ給ふに、供奉(ぐぶ)[行幸のお供の人]の諸官奏して、

夏・桀王 夏・桀王

 “これはその昔、夏の桀王(けつおう)の時、褒城(ほうじょう)に神人(しんじん)あり。化して二つの龍となって桀王にまみゆ。王おそれて是を殺し給ふに、龍、泡を吐きて死す。其の精(ずい)を壷に貯へ、櫃(ひつ)に納めをかれしに、其の後不祥のものを宮中に置くべからず、と郊野(こうや)に出してふかく埋め、人の暴かんことをおそれて塚を推(うずた)かくして、印とす。
 其の後

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殷の紂王、愛妃・妲己が容色に心を惑わされ、淫酒をこととして朝政に荒み、雑伐(ざつばつ)を好んで悪行増長し、人民を殺し尽くさんとするを歎き給ひ、御元祖武王、兵を揚げて殷を伐つ。紂王を亡ぼし、妲己を生け捕り、切らんとせしに、年ふる狐に姿を現し、飛び去らんとせしを、軍師太公望、其の儘誅させ、悪狐の屍をここに埋み、後代ひらくことをいましめ、塚を築き、碑を建て置きし。”
と承るよし申し上げけるに、厲王聞こし召し
“害せし畜生の屍、いかんぞ帝威に怨をなさん。殊に年久しき以前の事なれば、今怒るるにたらず、開き見ん”
と勅証ありしを、諸臣おしかへし諌め奉りけるは、
“かかる不祥のものをぞなんぞ見給はん。開き見給ふとも何の益かあらん。古より禁(いまし)め置きし事といひ、太公望、大賢奇才の人のなし置たるをなんぞや一旦破るべき。唯此のままに成し置き給へ。”
と種々申し上げれ共、更に聞き入り玉ず、
“龍の精は600余年、狐の屍も200余年を経て、其の形もあるべからず。何かくるしからん。早々開け。”
との給へども、群臣了承せず。
“形もなきを叡覧あって、詮無きこと。数百年禁じ置くを今開いて、国家の父母たる大切の御身に自然、不思議の災いあらば、後悔すともかへるべからず。”
と口々に諌め奉るを、廣王、大いに怒らせ玉ひ、
“綸言は出てかへらざること汗の如し[皇帝が一旦発した言葉(綸言)は取り消したり訂正することができないという中国歴史上の格言]。あやまちあるともいかがせん。早々開き、中に納めし器もあらば、其の儘携へて来るべし。”
と其の人々を選び命じ給ひ、帝は還幸(かんこう)なし給ふ。

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『龍の塚、狐の塚を堀暴(ほりあば)き図』『龍の塚、狐の塚を堀暴き図』[参文A]

 ここに於いて、うけ給わりし官人止むことを得ず、人夫を召し集め、碑の下の塚の内、ことごとく掘らせけるに、一丈余り穿ちいたって、大石の蓋あり。大勢にてかつぎのくれば、一個の壷あり。引き上げ見れば、鉄の鎖をもって八重にからみ綴りたり。又、かたへの塚を開けば、箱は腐朽して損じ、同じく一個の壷を得て、共に泥土を洗ひ清め、担わせて帰り、その旨奏聞(そうぶん)すれば、厲王、勅旨て鎖を解き、蓋を開かせ玉ふに、龍の壷よりは一塊の白きものあるを引き出してかたはらに置かしめ、狐の壷のうちを叡覧あるに一物もなく、底に少しの水溜まれるのみ。変わる事なし。
 諸官詰め合ふたる面々、女官なぞ召されてさし覗き見れば、不思議や。壷の底なる水、ぷつぷつと沸くが如くの音して、次第に泡となり、壷の縁まで沸き上がり、後には五寸六寸高くあふれ、座中に溢るる時、かの白塊に流れかかれば、一つの玄亀(おおがめ)と化す。

『壷を開く機会を得る図』『壷を開く機会を得る図』[参文A]

 帝をはじめ、諸官宮女、段々に流るる泡をよけ、はるかに退き、
“末はいかがなるや、捨て置きてよ”
と勅証に不審ながら打ち守り居るに、妾其の時7歳にて、何の心もなく玄亀を見んと、泡の中へ走り入り、縦横に亀の歩きし跡を踏みければ、不思議なるかな、泡出る桶は元の如く鎮まり、席に溢れし泡も、亀と共に消えうせ、元の如く壷の底に少しの水溜まれるこそいぶかしけれ。
 妾、其の時より懐妊せしが、先帝の勅命に、
“男もなく稚くして懐妊するは珍しき事之”
と、大切に手当てなし給ひしが、年月経て

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産ざれば、果たして“病之”として打ち過ぎる事19年。今に至って女子を生みしが、 “不祥の子なるべし”と速やかに皇城の御溝に浸し殺せり」、
と御答え申し上げけるにが、宣王聞き給ひ、
「是全く先王遺し給ふ災いなり」、
と宣ひしが、有司訴へて曰く、
「長安の巷に一人の男、山桑に弓を負い、又一人の女、箕草(ひさう)にて織れる箭袋(やぶくろを)負うて、売るものあり。謡言(ようげん)に応ずる所然れども、女の禍ひ有るべきと卜ひあるに依って、男はゆるし、女を捕らえて来ると奏聞(そうもん)せしかば」、
宣王悦んで、終に其の女を斬らしめ給ふ。
 此の年、宣王病に染みて崩じ玉へば、太子・宮涅(たいしきゅうくつ)を立てる。是を幽王と号す。
 然るにかの弓を負いし男、はうはうその場をのがれ去り、林中に隠れしに、嬰児の泣く声を聞きて怪しみ見れば、女子青草の上に捨てられ、諸鳥覆ひゐるを拾ひて思ふやう。我妻朝廷に捉われたれば、助命斗(じょめいはかり)がたし。此の子を養ひ、老年を頼みともすべし、と抱きて褒城に走り、難を遁れける。然るに召䅣卜筮(そうぼくぼくぜい)を以って考ふるに謡言に応ずる女を斬り、廬氏を欺きにてありし之。


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