p28-49
悉達太子『悉達太子坐像』仁和寺所蔵

(08)悉達太子(しったたいし)、仏道を弘(ひろむ) #悪狐花園に眠って傷つく



『悉達太子の図』『悉達太子の図』[参文A]

寵愛の図[班足太子、華陽夫人寵愛の図]

 そもそも耶竭国は大国にして広きこと境の際(かぎ)りもしれず、帝・純天沙朗大王(じゅんてんしゃらだいおう)の夫人は摩竭国(まかつこく)の大王の公主にして弗沙大王(ほっしゃだいおう)の御妹なり。中天竺加毘羅(ちゅうてんじくかびら)城の天帝・浄飯大王とは御近親にてましましける。ここに浄飯大王の皇太子に薩婆悉達(さつばしった)と申し奉るは、周(しゅう)の第4主、し昭王(しょうおう)26年甲寅(きのえとら)4月8日、日本は地神五代鵜草葺不合命(ちじん5代ちがやふきあえずのみこと)83万5676年に当って、摩耶夫人の御腹より誕生ましまし、天地を指差し「天上天下唯我独尊」と唱へ給ひしが、御幼年より智恵聡敏にして仁恵の御心ふかく、7歳より書籍を学び、力量飽くまで増強なり。10歳の時諸弟(しょてい)と力角(ちからくらべ)し、像を城外へ投げ出し、又は9重の鉄を射透し給ふ。尤も帝王の器備わり給へば御父母の寵愛斜めならずしかるに、悉達太子にかく王位を厭はせ、王ひ、唯万民と正直に導き実意に帰せしめんことをのみ心とし

p31-55
[参文A]

玉ひ、19歳にして2月8日王宮を忍び出、檀特山(だんどくさん)に入り、難行苦行をなし、22歳にて鬱頭藍弗(うづらんはら[ウッダカ=ラーマプッタ、インドの思想家])が所に遷り、30歳の御時摩竭陀国菩提場金剛座上において、2月8日明星の出る時、廓然(こうぜん)として大悟を示し、成道なさせ玉ひ、山を出て浮屠(とふ[ほとけ])の教えを立て、広く万民を済度[仏・菩薩(ぼさつ)が、迷い苦しんでいる人間をすくって(=済)、悟りの彼岸(ひがん)にわたす(=度)こと]し玉ふにぞ須達長者(すだちょうじゃ)金を布いて祇陀園(ぎだおん)を買い寺を立て、仏に奉る。祇園精舎と云い、是之狗耶尼国(くやにこく)にては婆陀和(またわ)がために経を説き、柳山(りゅうせん)にては屯真陀羅王(たゆしんだらおう)の為に法を説き玉ふを初めとして、天竺一統に尊信して、一代49年が間、300余依(よえ)の説経権実不二(せっきょうごんじつふじ[権と実とは、煎じつめれば同じものであるということ])の聖教たれば、釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)と称して、今千歳の後までも三国に仏道の祖と仰せなり。
 扨も釈迦佛摩竭国(しゃかぶつまかつこく)の弗沙王(げっしゃおう)とは、肉縁にて親しき由緒たるによってふかく帰依し折節釈迦仏を謂(しょう)?説法を聞いて尊(たっと)み玉ふ。
班足太子は現在、弗沙王の妹の生みし王子なれば、甥なるによって、しばしば教訓せられ、釈迦佛説法のむねをも折節求めし聞かされけるにぞ。班足太子、元来聡明なれば伯父の命を重んじ、慎み深く道を守り、仁心実義(じんしんじつぎ)を専(もっぱ)らとし、衆人諸民を恵み憐れみ、賢者の聞こえありしが、去る比(ころ)、華陽夫人を得玉ひてより、日夜淫酒に耽り、華陽が媚に魂を奪われ、追々彼が拗(そそむ)るに従碑、非道の振る舞いあって、後々は仮初めにも慈憐(じれん)の行ひなく、御父帝・純天沙朗大王(じゅんてんしゃらだいおう)の勅命にも背き、伯父・弗沙王の教訓も忘れはて、色に迷ひ酒に長じ、夜を日に成しての遊楽

p32-56
『悪狐傷を蒙るの図』『悪狐傷を蒙るの図』[参文A]

苦々しき行跡に、群臣眉を顰(ひそ)めける。
ころしも9月中旬、太子は菊の園を遊覧あるべしとわずかに雇従の官人45輩をつれられ花園に至り。ここやかしこと見廻らせ給ふ所に、籬(まがき)のうち菊の茂みに、狐一匹余念もなく眠って人音も知らで臥し居けるを見給ひ、誠(まこと)や狐は蘭菊を愛しかくれすむとの古言(ふること)にたがはず、
「誰かある。あれ射て取れ」
との仰せに畏まって弓に矢を打ち番(つが)ひ、標的を定め、拳をかため兵(ひょう)とはなせばねらひそれて狐の額を射剽(かす)りて矢は園の中に立ちたりける。狐は大いに驚き、籬を踊り超へ何処ともなく逃げ失せしかば太子は射損じたりしをふかく惜しませ玉ひ。
甚だ不興の体にて帰らせ玉ふ。御意(お心)のうちには
「今日の狐を射止めしものならば、華陽夫人に見せ悦ばせて興ぜんものを残念なれ」
とて此の狐こそ華陽が正体なりしを心づき玉わざる。ここ浅ましけれ。斯くて太子にはその夜、華陽夫人が寝所に入って見給ふに、額を布(きぬ)にて包み居たりしかば、
「いかが致せしや」
と問ひ給ふに、華陽こたえて
「妾今君の恩遇厚く、何に不足を思わずといへども、唐土に生れて遥かに此の国に来たりし身の故郷のこと、越し方行方を思い巡らし心疲れ、しばしのあいたまどろみし一睡の夢に正しく周の武王来たり棍(こん)を以って妾が額を丁と打るると見て夢覚めれば、棍身に冷や汗あって額に傷つき疼痛甚(いたみはなは)だ堪へがたければかくのごとく包み置きし」
と聞かせ玉ひ、太子は大いに驚き給

p32-57
ひ、薬をあたへて養生させられけるにぞ華陽が疵は程なく平癒しけりされば、班足太子は日にまし華陽夫人を寵愛し給ふこと限りなく。
 或る時、深宮に入らせ玉ふに折節、華陽夫人は髪を梳(くしけ)づらせながら、鏡にむかひ居たりしが、太子を見るより打ちしほれ、涙を流し無言なりしを、太子はご覧じ
「何ゆへ患いの色あるや」
と尋ね賜ふに恐れ入りて答えけるは
「妾はからずも君に大恩を蒙り奉り、冥加(みょうが[神仏の加護・恵み])に余りし身のかく取り乱せし其所へ入らせ玉ひ、御覧ましまして愛想も尽きさせられ、御疎(おうとい)もあるならば、居所立所にも迷ふべしと思ひ廻せば、心苦しく覚えず、涙落ち来たりて言葉も出さりし。此のうへもひたすらに替らぬお情けを懸けさせ玉へ」
と取りすがり、又泣き沈む。粧(よそお)ひは乱れし髪の顔にかかり、たとへば照る月影も村雲に見へつ隠れつする風情、茂原の萩におく露の風に玉散る景色なり。
太子はお心そらにならせ給ひ、供に涙を浮かべつつ、不憫さいやまさり
「比翼の契りなと替るべき、おしの兼言(?けつ)びし枕かならず必ず案じ思ふことなかれ」
と慰め玉ひ、早々髪を取り上げて来るべし、と酒色に御身を忘れ給ふ。
傾城傾国のたとへ、眼前に思わるる浅ましき次第なり。

『華陽夫人の図』『華陽夫人の図』[参文A]


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