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華陽夫人『華陽夫人』二代目葛飾戴斗

(07)班足太子遊宴 #華陽夫人太子を蕩かす



 既にかの篳篥に合わせて唄ひし美婦人、班足太子の御前に立ち出づれば、つくづくご覧ましまし。
「汝が形勢(ありさま)、我、天竺国のものの姿にあらず、何国(いづく)の者にて何として此の国に来しや」
と問わせ給ふへば、婦人こたえて
「妾は唐土殷の紂王の後宮に仕へし嬪妃(びんひ)なるが、周の武王大軍を催し、攻め来たり。殷を討ち亡ぼ

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し、紂王はついに鹿台にてみづから焼けて崩じ給ふ。武王、妾を捕らへて閨(ねや)の慰みになさんとせしを、やうやうに忍び隠れ遠く此の国にはさまよひ来れり。武王は、国の仇、主君の仇なり。いうんぞこれに身をまかすべきともに天を頂かざるの怨みあれども、いかんせん妾婦女の身のほどをひたすら願ひまいらする。」
之とうちしほれ涙とともに云いけるにぞ。
 班足太子、始終を聞きし召し、あわれを催されけるが、婦人の顔ばせ、梨華(りか)の雨を帯び、芙蓉の露を含める風情なるに余念もなく愛でさせ玉ひ、汝が心さこそ便りなき思ひならん。いかにも願ひにまかせ、
「今日より朕が側にて召使ひとらすべし。心を安んじ勤むべきなり」
との仰せを蒙(こうむ)り、婦人は飛び立つ悦び、太子を九拝し奉り、これよりの諸官にも一礼なし。歓喜の色をあらわし、つつ此の御めぐみいかでか報じ尽くされん。生々世々(しょうじょうせせ[生きかわり死にかわりして生を得た世、永遠])、忘却する期あらじと謝し奉る。
かくて太子は此の婦人に酌を取らせ、御遊宴をはじめ玉ふにぞ、主従、興に乗じ杯をすすめけるに、太子、婦人にのたまはく、
「汝を定めて舞を覚へつらん、一曲を望まんと思へども、汝の国の舞は、此の国に調子を知るものなく、此の国の舞は、唐土の楽器の調子とは違ふべし。然らば、我一曲舞いてみせん。是を見学びて、汝も又一さし奏でんや」
とありければ、つつしんで是をうけ玉り、
「妾不肖にして、歌舞

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の業を知らずといへども君の勅撰何ぞ違背仕らん。いざ先ず一曲あそばしそうらへ」
と申し上げければ、太子、
「やさしき心ざし感ずるに余りあり」、
と諸官に琵琶琴笙篳篥太鼓などの役を命ぜられ、みづから立ち上がりて一曲を舞い玉ふ。其の歌に

長英楼上東方臨めば
吹き送る秋風歌謡長く
始めて見る美人夭漢より落ちる
知る紅楓愛し来る風翻る

すでに歌舞終わりけれは、をのをの感に堪えかね賛嘆の声しばし止まざりけり。かくて酒宴たけなはなるに及んで、婦人は命にしたがひ一曲舞ふべしと扇をひらき立ち上がり舞ふ。其の頌哥(しょうか)に

故園遥かに去って西方に寄り
山水隔て且つ道延長
若し邂逅知遇の恵みを蒙(こうむ)れば
願はく比翼為起高く翔らん
 舞い終わって扇をおさめけるに、
「此の国管弦の調子、音色をすみやかに悟り得て、器用なること」
太子をはじめ、一座の諸臣深く感涙を催しけり。忝(かたじけな)くも太子の御盃を下し給わり、御遊宴に侍りしが、婦人は元より太子の御心にかなはんことをもっぱらに、艶をもって媚従ひ奉ればほとんど是に愛でさせられ夜もふけ、長栄館より宮中に還御(かんぎょ)ましまし、寝殿に入らせ給ひても程なくかの婦人を

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『長栄城に遊宴の図』『長栄城に遊宴の図』[参文A]

召させられ、ふかき契りをこめ給ふ。
 是よりご寵愛日に増し、花陽夫人と召され、明け暮れ淫酒におぼれさせ、王ひしばしも御側を放し、王ず御父帝・純天沙朗大王の任せられし国務朝廷の政事もいつしかに荒み王へば大臣4人議し、窺ふ国事もあへて聞し召し入れられず、ひとへに酒色に耽り給ひ、華陽夫人に賢慮を奪われ惑わせられ、昼夜に忙然(そうぜん)として渡らせ、王ふぞ浅ましけれ。

p30[班足太子、華陽夫人寵愛の図]

『班足太子、華陽夫人を寵愛の図』『班足太子、華陽夫人を寵愛の図』[参文A]

 後世・秦の華陽夫人も此の班足太子の愛妃の美麗なりしに取って名付けられしと聞こえける。
 ここにまた羅伝南(らでんなん)と云う人あり。阿羅々(あらら)仙人に仕へて、文学世に勝れ、世外の道士にして清高の風あり。人に屈せず禄を求めず、四方に遊んで、衆人に尊信せられ、近き年より南天竺に来て万人是を敬いける。
 班足太子、元より文学を好み給ふゆへ、師として道を問ひ給ひ召して殷に来たれば、褥をともに座を給わり、名山の花を賞し、景地の遊覧にも乗り物同じうして高論を聞き給ひけり。 然るに華陽夫人を得給ひてより、いつしか学問も打ち捨てさせ給ひ、羅天道士を召さるることも絶えてあらざりしが、或る時、道士、太子の御安否訪(おとの)ひ来たりけるに、太子、かの美婦人と褥を同じうして道士を迎える。礼も施し給わず、道士問うていわく
「君には婚姻の大礼行われたることも承らず、席を供にし給ふ婦人はいかなるものぞや。」
太子答えて宣うは
「我、近頃物憂(ちかごろものう)くして久しく、先生に見へず。今此婦は、しかじかの訳あって、我に身を寄するもの也。」
と道士

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のいわく
「男女の道は少しも猥(みだ)るべからず。ましていわんや国王の位をも継がせ給ふべき御身の出所も正しからぬ婦人を近づけ給わんこと、禍を招くべき。基の速やかに退け給ふべし。」
と諌め奉りける。太子聞し召し、
「我大いに誤れり。先生の言葉に従ふべし」
と宣ひけるが、更に其の沙汰もなく、いよいよ文学も捨て給ふぞ。道士は再び太子を問わず、中天竺に帰りける。


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