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雲中子雲中子

(04)太公望、雲中子に遇ひて照魔境を撃つ #雷震が伝



 西伯候崩じ玉ひければ、太公望、西伯の長子・姫発を立て西伯の位を謹む。
周の武王、是之此時、殷の紂王は妲己と供に昼夜に淫楽、昼は寝て、夜は歌舞酒宴に明かし、長夜の宴と号す。
悪行増長がゆへ、民日々に国を去って武王に帰すること引きも切らず、妲己、紂王に勧め、刑罰の軽きゆへかくのごとしと、四方に(?いき)を構へ、逃れ走る者を捕らえて酒の池に追い入れ、蟇盆(たいぼん)に投げ込みてみな殺しとするゆへ、泣き叫ぶ声、天地に震ふ。
箕子箕子
箕子(きし)は紂王の叔父にして賢人なれば、是を歎き厳しく諫めければ紂王、是を南牢に囚へしむ。
微子微子
兄の微子も諫め聞き入れざれば逃れ去りけるに、
比干比干
比干又続いて強く諫めけるに、妲己が曰く
「妾聴く聖人は心に七つの痣あって、諸々のことを覚えると。比干はみなを聖人といい、胸を刺してひらき見玉んや」
紂王つい

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に比干を殺し、胸を見る。親族の賢者かくのごとくなれば、今は天下に諌めるべき者なく、悪行増長せり。
妲己は心中に悦び、
「此の時を幸いに人の種を絶やすべき時節来たり。我思い成就せり」
と心にしめて、日々に人の命を失うことを勧め参らするさるほどに、太公望は岐州にあって天文を見るに、殷の運数も尽き足れば、今は武王と
「進め。殷を伐って亡ぼさん。」
と武王に申し上げるは、
「臣は元殷の民にて、岐州に入り、仕えをいたすこと道に違ふに似たれとも、明君の招きを辞するは却って天命に背くに当れば、御父西伯候の至誠に感じ、身を投じ愚忠を尽くす所也。
今殷の運数既に尽きんとす。臣、又君を援け、古国の主を伐(うた)んこと道にあらずといへ、其の天下は壷人の天下にあらず、天下の人の天下。
之君も又、殷の臣として是を伐ち玉ふは上を弑(しい)するの兵なれども、殷の徳ますます昏(くら)く、生民を陥ることと極まらんぬ。今伐って亡ぼさんは、是天に代わって民を救ふ之何の不可なることあらん。」
武王是を了承し給ひけるにぞ吉日を選びて兵を挙げんと決定しけり。

太公望 終南山へ訪のう図 [参文A]

 又、太公望思ひけるは
「終南山の雲中子仙人、先年妲己を除んとして紂王其の言葉を信じ玉ず、此の人を訪れて我が内心をも談ずべし」と。
唯、壷人供も具せす、ひそかに立出で終南山へわ?登れば松柏枝を交え、森々として流泉細石を洗ひ、白露樹上より落ちて風景何れの地か是に勝れるあらん。
岩尖るにして削るが如く、雲を開き霧を払い数百歩至れば竹茂り瑞

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西伯 子牙の庵を訪のふ図[参文A]

太公望 雲中子が門にたずむる図[参文A]

草奇花籬をめぐり、閑々として薫風袖に当たり裳を翻し、百篠の飛泉天より降り、蔓仞の??競ひ秀でず、洞門に徘徊臨めば、飛閣湧楼甍をつらね鑿を犯し日をかくす。
実に仙境のありさま感嘆に堪えず、太公望は洞門によりそひ案内を音信(訪れ)ければ、小童出て
「誰ぞ」と問ふ。
「我は呂尚、之先生に見んことを求む」
と云い入れば、小童内に入りふたたび来て太公望を引いて階に至れば、雲中子徐々に歩みて出迎えに。
其の容貌俗を出て身に道服を着し、手に如意を携へ礼をなして座に称す。瓊(けい)台文机の上書簡積んで堆(うずたか)し、座定まりて雲中子先ずいわく、
「我足下の名姓を聞くといへどもいまだ芝眉(しび)に接せず今幸いに顧眄(こめん)を賜ふ。満悦、何ぞ是に増さらん。」
太公望がいわく
「愚老、先生の大名を聞くと久し。其の下風に立って高論を聞かんと願へども、家貧しく活命の術に暇あらず、年八旬に至懶惰(らんだ)にして空しく過ぎたり。 然るに殷の天下・成湯の余沢尽きんとして紂王妲己に溺れ、衆民罪なく害せらる。 我も又是を恐れ、逃亡の民となって渭水の磻渓に隠れ、時を待しに、西伯みずから駕籠を枉(ま)げて愚老を礼し、岐州に伴ひ、左右に侍せしむ。
西伯安駕(あんが)し、武王継で仁徳あり。愚老に任ずるに大軍師をもって不日に殷を伐って、蔓民塗炭の苦しみを救わんことぞ然れども、殷に百万の勢あって、容易の敵にあらざるのみか神弁不測(じんべんふしぎ)の妖婦傍らにあって、機を察し蜜を知る。西伯といへども囚へられ箕子比干もみな彼に苦しめらるする。」

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「先生?に妖物たることを知って紂王を諌め、是を除かんとせしも早く悟り諌めの口を塞げり。
今我此の大義を統べ司るに至って先生の高論あらば、明教(めいきょう)を受けんことを欲し、密かに来たれるゆえん也」、
と延べければ、雲中子頷きて、
「足下軍学兵法の党略に於いては、其の奥秘め究めずといふことなし。
我よく是を知れり。又天文を見るに殷の運数尽きて命を更革(かへあらにむ)るの時至れり。武王の大軍一度至らば戦わずして殷を亡ぼし給はん。然れども足下誠心を以って我を問ふ。我、聊(いささ)か贈るべき一物あり」と。
錦の袋にをさめたる一個の鏡を取り出しあたへていわく

照魔鏡「照魔鏡」鳥山石燕
「是は照魔鏡と号して無二の宝器也。知慮の及びがたきに至って映し見る時は照然として明らかならん。尤も秘すべし、秘すべし。」
と太公望、三度戴きて是を謝し、
「先生愚老が丹心(たんしん)を捨て給はず、奇代の宝鏡を恵まれる。是、愚老が幸いに非ず。海内衆民の幸いなり」
と拝辞してすでに別れんとする時、雲中子、太公望の袖をひかへていわく、
「我又一人の豪傑を以って力を助けしむべし。」
と、童子をして招き至らしむるを見れば、身の丈九尺余、大眼潤面(だいがんじゅんめん)羅刹の如く、色飽くまで赤く朱を注ぐに異ならず、身には連環に鬱金皮の鎧を穿ち、百花袍の直垂に獅子の帯弓矢をかけ、手に紫金色の鉄の兜を携へ、片手にはぐわ棹の方天戟を提げ、腰に開山斧を付け、松紋桐室(しょうもんとうしつ)の剣をはき、連腮巻毛(れんしのけんもう)左右に分かれ、其の有様鬼神の如し。
雲中子是を指していわく此の人を知れるは西伯なり。

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太公望愕いて其の故を問ふ。答えて、 「先年紂王、西伯を召し至らしむる時、燕山の下にて俄かに大雨大雷し、電光燦爛として林の中に胎児の啼く声あり。 西伯、急に人をつかわし見せしめ給ふに、古墳の中に雷落ちて、葬れる所に棺砕け、女の屍を破り、嬰児の啼くにてありけり。 取り上げさせて見給ふに男子にして其の生まれつき神聳異骨節奇稀(じんしょういこっせつきき)なり。 此の子世の常の者にあらず、と数里の道を具せしめながら、乳母を尋ね召しめ給ふといへども俄かに得ず、かかる所へ我図らずも行きいたりて、始めて西伯候に遇奉りぬ。 我かねがね、殷の都に妖邪あるを知って、紂王を諌れども用いられずよって、遍(あま)ねく天下に遊行して妖邪を除くべき士を求むるに、或る夜一つの将星隕ちて、燕山の下に下るを見て尋ね至りし所なれば互いに其の奇異を語りておどろくばかり也。此の子、他日長大ならば殷の妖邪をはらふべきもの、民間に育つべきにあらず。と我に預け密かに養わしむ。 是をうけがひ、山中に養ひ長大と成るに随ひ、兵器を慣らわし、軍法を教えるに一を聞いて十を悟り、しかも心正直にして実義を重んじ、力飽くまで剛く、万夫も当るべからず。我歓んで時節を待ちしに、今殷の歴数尽きて聖主西方に起り、不日に殷を攻べき兆し天象に現れたれば、その節は道に於いて軍列に加わらしめんと、かくは用意せし也。」 と語るを聞いて、太公望嘆息し、其の名を問ふに、西伯と別れ奉りし時、他日逢うことあらばしるしとせん為、名を定むべしと命ありけるゆ

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太公望 雲中子が宝鏡に続いて雷震に見(まみ)える図[参文A]

へ、「雷によって児を得、震は長男の卦(けい)なるゆへ、直ちに雷震(らいしん)と名をせんことを約せり。」 と語れば、太公望限りなく悦び、大軍の進発近日にあり。童国に出て待たしめ給へと礼謝して山を下り帰りけり。  雲中子はもと姓は夏、名は熊、字はてう里、道号を我鬼先生ともいへり。終南の山中に隠れて気を練り、性を養って、奇異の方術あり、四方の士民是を尊んで山深く居を修理すること頗る広大也。山居数年、遂に脱して仙となる人仰いで、雲中子と呼びし也。

雷震雷震


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