p15-23
子牙『西伯 子牙の庵を訪ふ』明代

(03)西伯 子牙の庵を訪ふ #子牙を太公望と改め軍師に拝す



 かくて西伯、今日の狩は猪鹿の類を得べき為にあらず。王者の相となすべき賢人を求め玉ふなれば、唯一筋に渓についてすすみ給ふ所に、3人5人或いは漁りし、或いは釣りし、磐石の上に休息し竿を弾き、

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石を叩いて相供に謡ふ歌を聞き給ふに、其の譜、清くして紂王の無道を謗る言葉多ければ、辛甲(えんこう)といへる将を以って、 「何者ぞ」と尋ねらるるに、
「我々は此のあたりに住む賤しきものにて、釣りを垂漁(たれすると)りを業として露命を養ふ。将軍は何れよりか来たり給ふや。」
辛甲がいわく、
「西伯、狩[り]に出玉[う]に。」
之ここに於いて皆々驚き跪き、
「父母の来たり給ふを知らざりき。」
と拝伏せり。西伯仰せけるは、
「汝ら釣りを業とする俗民としていかんぞ[であるのに]、歌の風雅なるや」
皆伏して答えけるは、
「是より西へ行くと遥かにして老翁あり。世を遺るるの賢人にして磻渓に隠れ、釣りを垂るること数年、之自ら此の歌を作り我々に教えて謡しむる所。」
之西伯群臣を顧み、
「賢者實(じつ)にあるべし。里に君子在る時は鄙(いやし)き民まで化すといへり。今渭水の漁家みな清く高き風あとり感じながら、道の程暫く過ぎ行き玉ふに、又耕しくさぎるその鋤を担ひ、笛を横たへお互いに相唄を聞き玉ふに、鳳凰も麒麟もなきにあらず、龍興れば雲出で虎出れば風生ず。
殷の湯王も三度まで言葉を卑しくして頼み給へばこそ伊尹という賢人も出たれさあらずんば、大才を抱きながら山谷の内にかくれ臥(ふさ)ん。古へより賢者は貧しき辱めあれども賢君に偶(あへ)ば富貴になるといふ。意を一章に詩(からうた)に作りなり。」
西伯嘆息し玉ひ、群臣に向って
「此うちにこそ賢人あらん。たつね見よ」
と命じ玉へば、畏まって数人を伴ひ来たり。西伯は車より下礼をなして、願わくは賢明の君子に見えんことを欲(おもへ)ども俗眼にして

p16-25
西伯『文王呂尚・虎渓三笑図屏風』部分(狩野派・江戸時代)
わきまふること能ずとあれば、彼夫とも驚き拝伏し
「我々は賤しき民なり、」
と申しけるにぞ、其の謡ふ唄の雅なるを問玉へば、
「是は渭水を行くこと暫くにして賢翁あり。我々に此の歌を教えて謡しむる。」
之と西伯
「其の翁は何国(いずく)に居や」、
と宣へば此の渓に添って行き給ふべし。
「其の人釣りするに、釣り針を曲げず餌を設けず魚を釣るにあらず。王侯を釣る之と云いて、常に磻渓の岸の口に在り。」
と申しけるにぞ、西伯大いに悦び、又車に登りて、ようよう彼所に行きて見給ふに、老翁もあらざれば、車を停めて立ち、憩ひ玉ふ所に、岩山の後ろより一人の樵夫出来り、斧の柄と叩き歌を歌ふて山を下る。
其の歌の意、
「金(こころかね)の為に逢ずして、磻渓に隠るる賢者あるを世の人知らざる。之もし尋ねん君子あらば渓の傍らの磯辺に釣りして在る」
と云いし。之西伯是を見給ふに以前囚われし武吉なれば、左右の武士是を引いて西伯の車の前に至る時、西伯宣はく、
「我汝をもって河に沈めて死せりとすなんぞ、上を偽り、刑を逃れしや」と。
武吉、首を地につけあへて
「上を蔑如(べつじょ)せしにあらず。此の辺りに壷人の漁翁あり。善陰陽の理に通じ、兵法の奥義を究む。臣、此の人と樵漁の交わりあるによって、臣が為に災ひを覚ひ、今日に至る命をとどめて老母を養わしめんが為、之ねがわくは先の罪を赦し玉へ。」
と述べるにぞ西伯驚き、
「其の老翁何国(いずく)にありや」答えて西伯の石室に隠る大君、若(も)し是に見(まみ)へ給んとならば、御道しるべ仕らん」と申しけれは大いに悦び玉ひ、前の罪を赦し先に立たせ

p17-26
子牙『文王呂尚・虎渓三笑図屏風』部分(狩野派・江戸時代)

て磻渓に至り玉ふ。
 子牙は三日以前、西の方岐州の空に当たって、一道の祥雲起って、其の末、渭水にせまるを仰ぎ見て、
「是賢君来たり。」
問い給(たまわ)ん印(しるし)なるを知って、態(わざ)と釣竿斗(つりざおばかり)岸のほとりに捨て置き、深く隠れて出ず。
武吉すでに御駕を引いて石室に至れば、壷人の童子出て迎え奉る。西伯の数十人の従臣と供に歩みで庵に入り、
「主の翁あれに在るや」
と、小童に問い玉へば答えて、
「今朝薬を採んとて山深く入りぬ。三日の後には帰り来るべし。」と。
西伯嘆じて、賢者を問えども、
「逢わざること是我が不幸そうろう。」
とて筆を操って二十八字を書し、翁の机の上に置き給ふ。其の詩に

宰割山河布遠猶(さい、さんがをかつしてえんゆうをしく)
大賢抱負可充謀(たいけん、ほうふしてはかりごとみつるなり)
此来不見垂竿老(ここにきてみられず、さおをたれるろうじんを)
天下人愁幾日休(天下人いくにちやすむかを愁う)

散宜生がいわく、
「昔湯王、伊尹を招き玉ひし時、使者を?野(しんや)に向けらるること三度にして出来れり、とかや。
我君も賢者に見んと思ひ玉はば、志の誠を尽くさずんば、遇給ふことあたわじ。
暫く退きて群臣ともに三日物忌みして身を清め再び来らば見ることを得玉ふべし。」
西伯、善(よき)かな善かな、とついに草の庵を立出で車を促して帰り玉ふ。
其の後、三日の物忌み沐浴しふたたび到らんとし玉ふに、辛甲すすみ出、歯を食いしばって曰く、
「我君西方諸侯の総領として官費貴く威名天下に聞こえ、国の広きこと殷の保つ

p17-27
西伯 子牙の庵を訪のふ図[参文A]

所に対し、文武の臣下乏しからず。
然るに壷人老いぼれの漁夫に逢給んには一封の書を送りても召し寄越すべし。
自ら昂ぶり来たらずんば兵士を遣わし捕らえ来たらんに何の難きことのあらん。
いかなれば彼を尊び玉ふこと神明のごとく父母のごときや。」
西伯笑って
「汝誤れり。古人も君子の郷に入る時は車を降りて礼し、過ぎること是賢を敬ふの道之。」
と仰せければ、辛甲伏して其の身を謹んで物忌みす。
かくて殷に紂王十五年辛酉(かのととり)九月、西伯候姫昌、再び子牙の庵を問ひ給んとて、此の度は多くの人数をぐし玉はず、僅かの文武の臣下を従へ車に乗って立ち出玉ふ。
時に武吉を挙げて将の列に加へ、賢人を求めるの篤き志を表し、先立ちせしめて渭水に進み給ふ。
子牙は西伯狩を名として来給ふは、賢を求めるの精神にかなわざるゆへ隠れて出でず。
西伯の遺し置き給ひし句を見て、其の志の圧気を感じ思ふに三日の後必ず又来たり給んと。磻渓に出て釣りする所に、果たして一族の人馬北より来る。
子牙此れとき磐石の上に座し、竿を垂れて動かず、西伯の御駕籠程近く至れば、やがて車より下り立ち歩みて渓の辺に近寄り、其の人を見給ふに、顔は童の如く額広く、辮髪白きこと鶴の毛を頂くに似たり。其の貌凡成(かたちつねなら)ず。すなわち、礼を為さんとし玉へども、竿を垂れて更に顧(ふりか)へらず石を撃って歌う。いわく

西風起また白雲飛ぶ
歳既に暮れぬまた将焉為(まさになにかをなさん)
p18-28

 西伯、恭しく石の側らに立ち、其の歌う声の畢(おわ)るを待ちて、群臣と供に一度に拝し玉ふ。
子牙、其の謹み敬ふの誠をみて急ぎ竿を投げて、西伯を助け起こし礼を返して拝伏す。西伯、
「我は西方諸侯の司、姫昌之。
今紂王政事を失ひ、天下の衆民を殺しつくさんとす。我、是を救わんと思へども仁薄く智足らずして、民の望みを添えんや難し。
今、先生道高く徳重きことを聞き、若し我を捨てず、其の足らざるを補(たすけ)佐給はば、天下万民の幸ひならん」
と宣へば、子牙答へて、
「臣は浸辺の小民にして、深謀遠慮(ふかきはかりごととおきをおもんばかる)なし。然れども君親から恭しく訪のひ玉るあへて愚忠を尽くさずんば有るべからず。
今君、仁徳を民に施[し]、国富財豊(こくとみざいゆたか)にして、天下3分の2を保ち玉へば群臣多く、殷を伐んことを思ふべし。
臣が謀による時は未だ其の時にあらず。紂王無道なりといへども、君、之又天文を見るに湯王の恩沢未だ尽きず。
しかも殷、いまだ百万の兵あり。先ずますます徳政を布いて下民を撫で養ひ玉ふべし。
紂王続いて民を陥れるの無道を改めずんば、時を待って天に向かひ、人に応ずるの戦を出して殷に向はんに、攻めずして破れるべし。」
と宣ひけるにぞ、西伯大いに悦び謹んで教へを受けん。
「先生の姓名はいかん。」
答えて
「姓は姜、名は尚、字は子牙飛熊と号す。
紂王の残害を避け、西伯の政事よく老を憐れみ玉ふと聞いて、ここに従れる。」
之西伯聞き給ひ、諸臣を省み、
「飛熊いると夢みします応ぜり。」
と感嘆し給ひ。
「我先祖太公、かつて数十年の後、聖人ここに至ってわが国

p18-29
西伯 子牙を同車して帰り給ふ図[参文A]

を興す事あらんと云いき、然る時は太公の子を望めること久し」
と宣ひ、是より「太公望」と改め、同じ車の駕で帰り、吉日を選び拝して鎮国大軍師として敬ひ給ひけるが、既に歳八十に及びけり。
其の後、西伯病に臥し給ひ危ふからんとす。よって、世子姫発【後に周の武王と云う是人】のことを托し給ひ、世子にも太公望につかふること我につかふるごとくせよ、と宣ひてついに崩じ給ふ。
御歳九十七、後のおくり名して周に文王というはこれなり。

西伯子牙『全相平話』部分(国立公文書館蔵)

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